公理と定義:新しい数理哲学についての試論

我々は、すべてを包括する統一的知識への欲求を先祖代々受け継いできた。(…)今までに知られたことをすべて統一するに足りる信頼できる素材が現代になってようやく獲得され始めたばかりであることを我々は確信する。それに対して、〔学問の多種多様な分岐によって〕一人の人間の頭脳が学問全体の中の小さな一つの専門領域以上の知識を使いこなすことは、ほとんど不可能に近くなってしまった。この矛盾を切り抜けるには(…)誰かが諸事実や理論を思い切って総合するよりほかに道はない。たとえ、その諸事実や諸理論の知識が完全でなかったとしても、嘲笑される危険があったとしても。
                        ――シュレーディンガー『生命とは何か』

序論

1.新しい数理哲学
本稿はデーデキントやリーマンによる「概念と思考による数学」と、数学とは何か?というソクラテス的な「問いによる哲学」を統合した「数理哲学」についての試論である。数学基礎論が哲学的な数学であるのに対して、数理哲学は数学的な哲学であると言えるだろう。これまでの数理哲学では、一方的に数学を哲学的に考察するのみで、哲学を数学の観点からの考察もするという相互的なものではなかった。新しい「数理哲学」は、数学と哲学を循環し、数学的視点・哲学的視点・両者の視点という多面的な視座によって、数学と哲学の両者に、新たな知見をもたらすことをその理念としてかかげる。

2.哲学の危機的状況
そのような開拓の第一歩となる本稿では、すべての数学において最も基本となる定義と公理を主題として論じていく。このような学を新たに研究しようと志したのは、現代の哲学の危機的な状況を見てのことである。物理学者の谷村省吾氏はいわゆる「谷村ノート」において次の様に述べている。「形而上学は、経験・感覚によって調べることができず想像するしかないことがらに関する知識を生産し整理する学問である。形而上学の存在理由は、人間の経験・感覚によって調べられないことがらに関しても知識を得て推論ができるようになりたいというニーズに応えることであった。形而上学は宿命的に、アイデアを乱発し、どうにか理屈をつけてアイデアの優劣を競うが、決着はつかないという構造になった。また、枝葉の問題は想像力をかきたてないので形而上学者には取り上げられず、答えの出せそうにない大問題が形而上学のテーマになりやすい。結果的に、形而上学は「根本的な問題を研究する学問」ぽくなった。というのが私の見立てである。」そして哲学における定義については「哲学者が主観的意識経験は実在するか、とか時間の経過は実在するか、とか言う場合の「実在」の定義はいかなるものか? 前提となる定義を曖昧にしておいて議論を進めるうちに、やがてどういう定義がふさわしいか見えてくるのだろうか? 彼らの議論はそうではなかった。最後まで実在の定義は曖昧なままであった。」と述べ、現代の哲学者への鋭い批判をした。本稿が定義についての論考なのはこの谷村氏の考えにも由来している。

3.数学と哲学の関係
しかし、ラッセルと共に『プリンキピア・マテマティカ』を執筆し、論理学・数学・哲学に多大な影響を及ぼしたホワイトヘッドは、「あらゆる西洋哲学はプラトンイデア論の変奏にすぎない」と述べている。万学の祖とされるアリストテレスもまずプラトンを師として哲学を習って自身の思想を形成したのだ。そのプラトンが設立した「アカデメイア」はアカデミアの語源となった施設であり、現代の大学研究機関の原型と言える学園なのだが、幾何学は感覚抜きの知性のみでの思考を鍛えるものとして重視されており、入り口の門には「幾何学を知らぬ者はくぐるべからず」との額が掲げられていたほどであった。近世にはデカルトライプニッツパスカル19世紀にはフレーゲラッセルなどの数学と哲学を股にかけ、多くの業績を残した学者がいたことから分かるように、数学と哲学は分断するべきものではなく、むしろ協働するべきなのだ。本稿はこのような問題意識で執筆されたものだ。

4.本稿の性格
その省察の過程において、形而上学存在論といった哲学や、数学とは一見無関係だと思われるような哲学の考えと数学とを関連付けるなどの脱線が多く見られると感じる読者もいるかもしれない。そして、数学について少々荒っぽい解釈も多く述べている。これは、画家がまず初めにラフスケッチから初めて、そこから段々と作品として仕上げていくのと同じ様に、「数理哲学」においてもその探究の初めから明晰判明な真理を語ることはできず、多くの研究を重ねていく内に明確な成果を出すことができるのだ。しかし、ただ闇雲に思弁を重ねたり、中途半端な理解のまま研究をすれば、それはアラン・ソーカルがいうところの「〈知〉の欺瞞」となってしまうだろう。それゆえ、哲学の側にいる筆者は数学的な知識に多くの不足があることを繰り返し自らに言い聞かせながら、多くの文献に当たり、数学の概念や考えかたの粗雑な濫用にならないように細心の注意を払った上で筆者の考えを述べた。

Ⅰ.古代ギリシアの哲学者達にとっての公理と定義

1.「無知の知」の限界
定義とはかつてソクラテスが死の運命に陥ることになるほどまでに熱心に希求した何らかの知識についての本質を表すものである。しかし、ソクラテスは公理に関しては定義程に熱心に求めた訳ではなかった。むしろ、ある日突然「お前以上に賢い者はいない」という神託を受け、自分がそんなに賢いわけがないということを証明するために、無知者のふりをして何人かの職業の人々に「勇気とは何か?」などを問い。自信満々に答えたその人々からはその一部の外延しか得られなかった。ここから、自分が無知であるということを自覚しているのは自分だけだと悟り、自身の無知を公理として定立して、それ以上追求することは無かった。しかし、無知の本質とは何かについての定義を、無知を追求するということはソクラテスの倫理に反するのではないだろうか?ソクラテスが無知を自覚していたといっても、生まれたての赤ん坊同然であったという訳ではない。古代ギリシアの一般教養としての知を有していたことはプラトンの数々の対話篇から知ることが出来る。そして、ソクラテスの問答には無窮に陥るというアポリアが潜んでいる。もし、「XはYである」という定義を述べても、今度はそのYとは何かという問いになりそれが底に着くまで続けられる。そして、ソクラテスは決して底に着いたとしても満足はしないだろう。それに、真の意味では無知を知ることはできない。ほとんどのアメリカ人は私の存在を知らないということすら知らないだろう。すなわち、存在についての無知は自覚することが不可能なのである。

2.「定義」の定義
プラトンの対話篇がほとんど定義にたどり着くことが無かったのに対して、アリストテレスは定義についての定義を定め、それによって非人称的な論証を記述していくという形式を考案した。これは、現代の論文の形式の原型となる物である。さて、アリストテレスによる最も厳密な定義とは「最近類と種差による定義」である。最近類とは、定義の対象を元として含む集合であり、種差とは他の元との差異を意味する言葉である。したがって、種差は類に包摂されることとなる。類となる概念について「それに含まれる全て」を列挙したようなものを「外延」、「全てが共通して持つ排他的属性」を示した様なものを「内包」という。定義は通常「SはPである」と表現される。アリストテレスはもう一つの定義の方法として、概念ではなく実体に適用するための質料と形相による定義を考案した。質料とは、何らかの事物の材料であり、形相は何らかの事物の目的であると定義できる。ここから具体例としては、質料のみの定義は「パスタとは、小麦の加工物である」形相のみの定義は、「パスタとは、食べるためのものである」質料と形相の結合による定義は、「パスタとは、食べるための小麦の加工物である」が挙げられる。

3.論理学の起源
アリストテレスは公理として、同一律・無矛盾律排中律を採用している。これはパルメニデスによる影響が大きいと言えるだろう。パルメニデスは、『自然について』において詩の形式で存在論・論理哲学・言語哲学を記述しており、その内で「有るものは有り、有るものが無いことは不可能である」「無いものは無く、無いものが有ることは不可能である」と述べて同一律と無矛盾律を定式化すると同時に、両者を相反する概念として間接的に定義した。しかし、これでは無と有の本質を知ることはできず、不十分な定義だと言える。判断の真理は「そうなのか、またはそうでないのか」のいずれかであると述べて排中律を定式化した。前述した有と無の不十分な定義は、有ることと思考することは同一であり、無は思考できないものであるという定義を後に行い。それらは人間がつけた名称に過ぎないと述べていることから、思考は言語活動であるとパルメニデスが考えていたことが分かるのである。

4.「存在」の定義不可能性
アリストテレスの定義は彼の形而上学と自然学の研究によるものであり、パルメニデスの公理は論理学の思弁の成果であると言えるだろう。しかし、いずれの定義と公理においても「~である」という繋辞によって諸概念が結合されており、これは同時に「~がある」、すなわち存在を含意することになるのである。パルメニデスは思考と存在を同一であるとしたが、それならば思考されていない存在は存在しないことになってしまう。我々は身の回りの世界全てを同時に志向することは不可能であるから、これは誤りであることが分かるだろう。では存在とは何か?これは数々の哲学者が挑んだ難問であり、未だに明確な定義を出来た者は存在しない。これは存在がすべてを包摂する概念であり、それゆえ種差となるものが存在せず、定義不可能なのだ。しかし、ライプニッツは存在を困難なものとしながら以下の様に定義した。

存在は、「存在」あるいは「純粋な積極性」という以上に定義することはできない。したがって、どうすればより明晰な観念を我々に提示することができるかが問題になる。しかし、可能ならば、すべての存在しようとしている可能性を知っておくべきであるが、すべての可能性が存在しているわけではないので、いくつかの可能性で他の可能性を妨げているもの、つまりより完全なものが存在する。また、最も完全な存在(神)がいると知られている。
               ――『形而上学と論理学の諸概念の定義』

Ⅱ.古代ギリシア幾何学者達にとっての公理と定義

1.ユークリッドの『原論』
これまで哲学における定義について述べてきたが、それ以上に厳密な定義と公理を要請される学問として幾何学が挙げられる。現代まで続く幾何学の記述の元となっているユークリッドによる『原論』は、いくつかの定義と五つの公準、及び九つの公理を箇条書きにしたのちに、それらから演繹される何十もの定理とその証明をこれまた箇条書きにするという形式である。最初に幾何学の最も単純な要素である「点」の定義から始まるのであるが、その定義とは「点とは部分を持たないものである」というものである。幾何学では与えられた定義と公理(公準)のみによって、定理を導き出していく学問なのであるが、「部分」とはいかなるものなのか、「持たないもの」とはいかなるものなのかの定義が与えられていない以上、これは不完全な定義と言わざるを得ない。もちろん、ほとんどの読者は「部分」が何を意味しているのかご存じのはずだろう。しかし、厳密性を重視する幾何学においては、日常的に使用される言語はあまりにも曖昧で多義的なのである。それゆえ、誰でも知っている概念を再定義して、その定義に従って推論を重ねることで無矛盾な体系を構築することが出来るのだ。この部分がどのような意味を持つのかを示すものとしての「全体は部分よりも大きい」という公理8が挙げられる。しかし、この場合でも「全体」とは何か、「大きい」とは何かについての定義がなされておらず、読者のもともと持っている知識に依存するのである。しかし、これは決して幾何学の欠点ではない。そもそも、完全な定義とは不可能な試みなのである。したがって、基本的な定義においては、誰もが共通の認識をしている最も単純な概念が用いられるのである。ここで、点の定義に戻ると公理8から全体>部分の関係にある部分すら持っていないが存在はしている純粋な座標軸であることが帰結する。ゆえに、点とは理念であり、幾何学の作図において書いたとしてもそれは本来存在しないものなのである。ユークリッドの時代には未だなかったデカルト座標の平面において、x=A、y=Bという風に表すことによって、『原論』の定義に忠実な点を表現することが出来る。また、「定義2.線には幅は無く長さがある」「定義3.線の端は点である」「定義4.直線とは点がまっすぐに並んだ線である」という様に続いていく、ここから直線も本来は目視できない理念上のものであって、作図による直線は直線のイデアの影であるということになる。次に公準に移る。「公準1.次が成り立つことを要請する。任意の点から任意の点へ直線を引くこと。」ここから分かるように公準とは、読者に対して作図をすることを要請するものであり、プラトンが純粋な思惟の訓練として幾何学アカデメイアで教えていたことに反して、幾何学は身体的なものだった。そのことが、この二つの直線に関する公準に示されているのである。

2.ユークリッド幾何学における公理
最後は公理について述べていくことにしよう。以下に九つの公理を挙げた。

1.同じものに等しいものは、互いに等しい
2.同じものに同じものを加えた場合、その合計は等しい
3.同じものから同じものを引いた場合、残りは等しい
4.不等なものに同じものを加えた場合、その合計は不等である
5.同じものの二倍は、互いに等しい
6.同じものの半分は、互いに等しい
7.互いに重なり合うものは、互いに等しい
8.全体は、部分より大きい
9.二線分は面積を囲まない

この6までは代数表記が可能であり、1)(A=B)∧(C=B)⇒(A=C)、2)(A+A)=(A+A)、3)(AーA)=(AーA)、4)(A+B)∧(C+B)≠(A+2B+Ⅽ)、5)2A=2A6)A/2=A/2と表記できる。このように、ユークリッドの『原論』においては、少数の公理と公準、概念から論理規則によって理論が構築されていたのである。

Ⅲ.ヒルベルト形式主義的公理論

1.『幾何学基礎論』における公理
それに対して、ヒルベルトによる公理論では論理的依存関係によって結び付けられたネットワークとして数学を理解する。注目点が、個々の真理から、その相互依存関係に変わったのである。それまでの公理論では命題の依存関係(命題AからBが帰結する)しか注目されなかったが、ヒルベルトは独立性の概念を駆使して「非依存」的関係を解明することが重視された。公理が無矛盾なだけでなく互いに独立であることも求めたのである。このような、公理論の手法を駆使して『原論』を『幾何学基礎論』へと発展させたのだ。ユークリッドにおける直線が、ヒルベルトではどう表現されるかを見よう。

Ⅰ.結合の公理
1.任意の2点 A, B に対してそれらを通るある直線 l が存在する。
2.異なる2点 A, B に対してそれらを通る直線 l はただひとつ存在する。
3.一直線上にある異なる点が少なくとも2つ存在する。一直線上にない少なくとも3つの点が存在する。
4.(…)

このように、『原論』では諸関係に関するコモン・センスを述べていたのに対して、『幾何学基礎論』では点・直線の定義は為されずに点と直線の関係のみを表した公理によって、諸定理が演繹される。ここにおいて、点とは、直線とは何か?という「意味論的要素」が形式化され、中期ヴィトゲンシュタインの言語論のように、厳格な規則による使用が記号の機能を決定するものとなっている。その他の違いは、公理によって点・直線の定義を行っていること、公理が公準の役割も果たしていること、公理が一階述語論理命題であること、一つの公理を複数の命題によって成立させていることである。

2.ヒルベルトの公理の言語分析
上述した両者の差異についてもう少し子細に分析することにしよう。まず、取り上げるのは、公理における点や線の概念の関係によって定義をし、それが同時に『原論』における公準の役割も果たした上に、それらが独立かつ無矛盾である複数の命題によって成り立っているということである。まず第一の命題はヒルベルトのテーゼにおける指標としての公理であると考えられる。例外的に矛盾から逃れることのできるこの命題で、結合の公理において定義する概念の存在を確立する。ついでに、直線を引くという公準の役割も果たしている。これはスピノザが『知性改善論』において提示した「生成的定義」とでも呼べるような球体の定義と共鳴する。それは、まず半円の概念を創造し、その半円直径を軸に回転させることで球の概念が生じるというものである。そのような事象は自然において未だかつて一度も起きたことが無いと考えられるにもかかわらず、我々が球の概念を創造できるのは、単純な概念のみによる単純な思考は真にしかなり得ず、半円・運動・直径はいずれも単純な概念であるがゆえであるとスピノザは主張する。日本語訳においては、二点を通るという動詞用いられ、その運動によって直線の観念が生成されるのであるが、原文のドイツ語では「bestimmen」という決定を意味する概念が用いられている。しかし、それは「verbinden」という繋ぐという意味を持つ動詞概念と同じ意味で用いるとそれ以前の記述で述べており、それゆえ、点と直線という概念の意味を知らなくても、二つの何かがつながるという表象によってそれが道路であれ紐であれ何であれ、幾何学においては全く理解に支障はないのである。その次に、2点にはそれぞれ異なるという性質を、直線にはただ一つという性質を付与することで、全く同じ座標に二つの点を書くことや一つの概念から複数の概念を解釈することを防いでいるのである。そして、最後にそれまで直線が存在することを述べ、点はその存在のための関係項であったのが逆転し、直線上に二つの点が存在することを述べている。そして、一直線上に無い三つの点からは一見一次元から二次元への扉であるように思われるが、一つの線に三つの点が通ること、すなわち曲線ではないということを点と線の関係によって示しているのである。(ちなみに、二つの直線が通るということは二つ目の命題で既に否定されている)そして、この三つの命題は異なる叙述法によって述べているが全く同じ図であるにもかかわらず、そのいずれによっても他の命題を演繹できないのだ。

3.モナド的なヒルベルトの公理
このように、ヒルベルトの公理論は概念の運動によって論理的な相互依存関係によって張り巡らされた関係の網の目の結節点として概念が定義されているにもかかわらず、すべての命題は独立関係にあり、ある命題から他の命題を演繹することはできない。そのような、依存と独立の二重奏は無矛盾性を失うことなく数学的な厳密性を強固に保持している。これらは、ライプニッツモナドと相似している。モナドは窓を持たず他のモナドに影響を及ぼすことはできずに独立した関係にある。また、他のモナドと同一であるということは不可別者同一の原理からありえない。しかし、このようなモナドは独立した一なるものであるが、多を意識表象することはできる。そして、変化するという性質を持っている、不動の点とそれを通過する直線の関係の様にモナドには変化する部分と変化しない部分があるの様に多くの類似がある。

4.ヒルベルトの公理の記号化
ところで、「点・線・面を机・椅子・ピアマグと言い換えても幾何学はできる」というヒルベルトの宣言の真偽を確かめるため、公理をすべて(机などの代わりとして)記号にできるかを試してみよう。点については{A、B、C、D}、直線をLとする。このとき、結合の公理は各々1.∃L(L∋(A∨B))、2.∀L(L∋(¬(A=B)))、3.1L∋(∃A∧∃B)また、連続性の公理はL(AB)={A1, A2, A3, ... , An-1, An}、L(A)={AA1, A1A2, A2A3, ... An-1An }、∀A(L(A(A<B≦An≡CD))と記号化することができ、こうしてヒルベルトのテーゼ「現実の「数学の理論」は数理論理学の概念である形式系により、忠実に再現されるので、数学の理論について語るには、形式系について語れば十分である。」が真といえるのだ。

5.数学の存在論
次は、公理がすべて述語論理、すなわち「~が存在する」という形式であるという点に焦点を当てよう。これは1893年の初頭に書いた数学ノート内での以下に引用した様な存在に関する記述によるものであると考えられる。

存在とは、その概念を定義している諸条件が相互に矛盾しないことを意味する。つまり、ある指標である公理を例外として、それ以外のすべての公理からその例外的公理に矛盾する命題を導出できないことである。

つまり、「存在=無矛盾」であり、「存在とは、その概念を定義する指標である公理が自己矛盾に陥らないこと」だということである。これの存在の定義がヒルベルトの前期形式主義における中核をなすものであり、計算と数式を捨てて新しい概念と推論による「概念と思考による数学」というリーマンの方法を支持していた彼にとって、数学の概念を保守するための非常に重要なテーゼであった。しかも、ヒルベルトの生きた19世紀は数学では「何を存在として許容できるのか」という数学の存在論が盛んに議論されていた時代でもあったがゆえに、このテーゼは概念による数学への批判の盾としようとしたのである。この数学におけるプラトニズムとでもいえそうな哲学的含意を含む論争は、カントール集合論へとその矛を向けられることとなったのだ。数字でも空間でもないものの集まりである集合という概念は、「自身を要素として含まない集合全体の集合」というラッセルのパラドックスや、「すべての集合を要素とする集合」というカントールパラドックスによって、危機的状況に陥ることとなった。これを救ったのがヒルベルトのテーゼであり、カントールパラドックスが必然的に無限集合になることから、無限が無限を包摂するという自己矛盾に陥ってしまうという状況から「無矛盾集合は存在を仮定しても矛盾を導かないがゆえに存在することをその公理論によって救い出したのである。アリストテレスが数学的実体は存在しないと『形而上学』において、ピタゴラス学派への批判として述べて2000年余り経た19世紀において、自身が体系化した論理学の無矛盾律という公理を根拠にすることよって皮肉にも反駁されることとなってしまったのである。しかし、この計算を無視した「存在証明」は当時の常識を超えていた。そのため、ゴルダンは「これは数学ではない。神学だ。」とさえ言ったと伝えられている。ゴルダンが知っていたかどうかは定かではないが、この神学というのは単なるメタファーなどではなく、ライプニッツによる神の存在証明が神の定義が無矛盾なのであれば必然的に存在するというものであったため、ヒルベルトの方法論は、実際に神学に近い立場にあったと言えるのである。

Ⅳ.神の存在証明における定義と公理

1.アリストテレスの証明
では、実際の神学における神の存在証明がどのようなものであったのか。それでは、アリストテレス・ アンセルムス・デカルトライプニッツスピノザ、そして最後にゲーデルによる証明を各々に紹介していくことにしよう。まずは、アリストテレスによる神の証明である。アリストテレス形而上学は、それがキリスト教が勃興する以前のものであったにもかかわらず、中世ヨーロッパにおける神学の端女として大いに利用され、また大きな影響を及ぼしていた。アリストテレスが何故神の存在証明を必要としたのかについては、彼の哲学について少し説明する必要がある。アリストテレスは主著『形而上学』において技術を有する実践家と知恵を有する理論家を区別し、前者を後者よりも劣ったものであると述べている。その理由は、実践家は事象の原因を知らずに経験よる勘で仕事をこなしているからだというものである。そして、知を愛する者は事象の原因を希求しなければならず、何かの原因にも原因はありその原因にも原因…と辿っていけば必然的に第一原因にたどり着く。この全ての原因を求める学は、最初の学として第一哲学と名付けられ、哲学者はそのような学を最高のものとして認め、知を愛するものとして研究すべきだと主張した。全ての究極的な始動因としての原因であるものは動かすものとして不動であらねばならず、永遠の運動は永遠な存在により、唯一の運動は唯一の存在により、動かされなければならない。それゆえ、この様な不動の動者としての実体、神の存在が必然的に証明されるのである。ライプニッツの『モナドジー』における神の存在証明とは、このような証明に加えて、神の定義が無矛盾ならば必然的に存在するというものである。この証明の問題点は、充足理由律による証明であるがゆえに論理的必然性がない蓋然的な証明であるという点である。それゆえ、ヒュームの因果律を論理的に証明することが出来ず、習慣によりある事象同士を関係づけているという自然の斉一性に対する懐疑論による反論に耐えることができないのだ。

2. アンセルムスの証明
次は、 アンセルムスの神の存在証明に移ることにしよう。 アンセルムスはスコラ哲学の祖であり、彼の神の存在証明の方法は後の神学に大きな影響を与えた。アリストテレスライプニッツの24命題における証明が原因を辿っていくという力学的なものであったのに対して、定義と公理から非存在が矛盾するという背理法によって、演繹されたものであり、デカルト幾何学的な証明にも大きな影響を与えたと考えられる。以下では、それを引用する。

1.神とは、最大の存在である。
2.精神の内に存在するものよりも実在するものの方が大きい。
3.神が精神にのみ存在し、実在しないならば神の定義と矛盾する。
4.よって、神は実在する。Q.E.D
(※便宜上、引用者による簡略化を行った)
                       ――『プロスロギオン

この証明を子細に分析してみよう。前述したようにアリストテレスライプニッツの証明とは異なるものであり、カントが『純粋理性批判』において神の存在証明を批判する際に行った分類に従えば、前者が「存在論的証明」であるのに対して、後者は「宇宙論的証明」に属する。この証明では、存在を類、あるいは性質として扱い、それが最大であることを種差とする。その次に、精神よりも実在の方が大きいというユークリッド幾何学の時代における共通概念としての公理が提示される。そして、神の不在と最大の存在が現実よりも小さな精神の内にのみ存在することの背理によって、神の存在が証明される。この証明の特徴は「存在」を三つの意味で用いているのにも関わらず、それを同一のものと見做しているという点である。これは、ヴィトゲンシュタインが『青色本』において、アウグスティヌスが空間の「長さ」を時間の「長さ」と混同していることから、時間についての哲学的混乱が生じたという診断と相同である。1において存在は神の類・性質として扱われている。次に精神よりも実在の方が大きいという共通概念を提示する。ここでは存在は事物として扱われている。これは、既知の事柄よりも未知の事柄の方が多いという経験的事実から真であると言えるだろう。しかし、これはアポステリオリな認識から得た蓋然的な真理であり、論理的必然性はない。それゆえ、ここから演繹される命題も蓋然的な真理に過ぎない。3と4では、存在は量としての存在、すなわち一階述語論理における存在と同じ意味で用いられている。このように、 アンセルムスの神の証明は単なる詭弁である。

3.デカルトの証明
デカルトは、大きく分けて三つの証明を行った。すなわち、1)実在性による証明、2)生得観念による証明、3)連続創造説による証明、である。以下においてそれぞれの証明をその要点に絞って簡略化したものを提示する。

実在性からの証明
1.神とは、全知全能かつ全てを創造し独立した実体である。
2.〈私〉は生得的に神の観念を有する。
3.観念は表現的実在性に含まれるのと同等の形相的実在性を有する。
4.無限観念は有限観念より多くの表現的実在性を有する。
5.無限実体は有限実体より多く形相的実在性を有する〔3より〕
6.よって、神は存在する。Q.E.D
生得観念からの証明
1.無から有は生じない。
2.完全なものがより不完全なものを原因とすることはあり得ない。
3.我々は神の観念を生得的に有している。
4.〈私〉は神の観念の原因とはなり得ない。〔4より〕
5.無から神の観念が生じることはあり得ない。〔3より〕
6.それゆえ、神の観念は神によって〈私〉に付与された。〔6,7より〕
7.よって、神は存在する。Q.E.D
連続創造説からの証明
1.時間は相互に依存せず、かつ同時に存在しない。
2.しかし、ある瞬間の次の瞬間にも我々が存在し続けている。
3.〈私〉は自分自身によって存在しているわけではない。
4.神以外に〈私〉を創造し、存在させることができる存在はない。
5.よって、神は存在する。Q.E.D

実在性による証明は アンセルムスの証明の変形であり「存在論的証明」であると言えるだろう。それゆえ、この証明でも アンセルムスと同様の誤りを犯している。次の生得観念による証明だが、これは「宇宙論的証明」と「存在論的証明」の合わせ技であるが、それでもやはりそれぞれの証明の問題を回避できるわけではない。最後の連続創造説は、自由意志を認めるデカルトの哲学と矛盾する上に、実際には時間を離散的に捉えて連続しないという恣意的な定義が神の存在によって証明されるという逆転したものとなっている。

4.スピノザの証明
スピノザユークリッド幾何学における方法によって証明を行った。したがって、神の存在証明は定理であることになるがそれは「無限に多くの属性から成り立つ実体(=神)は必然的に存在する」というものである。この定理を理解するためには「神」「実体」「様態」の定義を知ることが重要である。スピノザの『エチカ』においてこの3語は、「神 :無限に多くの属性から成る実体」「実体:その本性が存在することであるもの」「様態:他のものの内に存在して、他によって考えられるもの」とそれぞれ定義されている。そして、背理法による証明、充足理由律による証明、力能による証明という三つの証明がこの定理を根拠づけるものとなっている。以下に示すと。

背理法による証明
1.「神は存在しない」と仮定する。
2.すると、神の本質には存在が含まれないことになる。
 〔公理7(存在しないと考えられるものの本質は存在しないこと)より〕
3.これは、〔定理7(実体の本性は存在することである)〕と矛盾する。
4.なぜなら、神は実体だからである。
5.よって、神は存在する。
充足理由律による証明
1.すべての存在と非存在にはその理由が存在する。
2.存在は存在することを妨げる何かがなければ必然的に存在する。
3.実体は、その本性に存在を含んでいる。
 〔定理7(実体の本性は存在することである)より〕 
4.しかし、その存在を妨げる原因がある可能性は否定できない。
5.その原因は自らの本性上のものか、他の本性上のものである。
6.原因が本性上同じ神性をもつ実体ならば、神は存在する。
7.原因が他の本性によるものならば、神と共通するものはない。
  〔定理2(異なる属性を持つ2つの実体は互いに共通しない)より〕
  それゆえ、それは神の存在を定立乃至除去できない。
8.したがって、神の存在を妨げるものは存在しない。
9.よって、神は存在する。
力能による証明
1.存在し得ないことは無力である。
2.存在し得ることは能力である。
3.今、必然的に存在するものが有限の存在に過ぎないとすれば、
  有限存在は無限存在より有能であろうが、これは不条理である。
4.ゆえに、全くの無、または完全者が必然的に存在する。
5.したがって、我々は、我々の内か他の必然存在の内にある。
  〔公理1(全存在は自身のうちにあるか、または他の内にある)〕
  〔定理7(実体の本性は存在することである)より〕
6.よって、神は存在する。
  〔定義6(神とは無限に多くの属性から成り立つ実体である)より

充足理由律による証明には「宇宙論的証明」が孕む問題が、力能による証明と背理法による証明には、「存在論的証明」が孕む問題がそれぞれ付随している。それに加えて、神の定義に元々存在することが含意されてるという問題があり、存在するという定義から存在が演繹されるのは当然の事である。

5.「神の存在証明」が孕む問題
ブルバキは「数学とは証明である」と宣言した。ならば、少々荒っぽい言い方になるが、神の存在証明でも「思考と概念による数学」と見做せるのではないだろうか。これまで紹介した証明の内で我々が注目すべきなのは、「宇宙論的証明」ではない。なぜなら、充足理由律は論理的必然性を持たないからである。むしろ、注目すべきは「存在論的証明」の方である。ユークリッドでもヒルベルトでも証明しようとしたのは概念の無矛盾な多くの組み合わせによって構成された定理という命題であり、そこでの主題は「関係」であり、「存在」は公理として証明抜きで認められるものである。ユークリッドの『原論』には「~存在する」という表現は出てこないが、定義においては「~である」という表現を用いている。「SはPである」はSの存在がなければ成立しない命題であり、それゆえ「~である」には「~存在する」が含意されているのである。(しかし、含意されているからと言って存在することになるわけではない。その命題が矛盾を含むならば「~である」と表現されていても、存在は認められない)それに対して、信心深い哲学者たちが証明しようとしたのは、あくまで「存在」であり「関係」はそのための手段に過ぎない。それゆえ、幾何学に大きな業績を残したデカルトによる証明は、それが「関係」の無矛盾ではなく「存在」を証明するものであったために、失敗してしまったのである。そして前述したように、ほとんどの「存在論的証明」には、前述した様に定義における「~である」が既に存在を含意している上に、多くの証明における定義には既に存在が含まれていたがゆえに、神学は数学と同様の「証明」はできず、失敗に終わったのだと考えられる。

結語

これまで述べてきたことは決して厳密な一貫性のあるものではなく、多くの部分が神の存在証明についての記述に割かれたということから、これがはたして序文で述べていたような「数理哲学」の理念に合っているのか疑問に思う読者もいるかもしれない。そして、数学の概念や方法論を関係が無い様に思われる哲学者の思想と結び付けたことに強引さや粗雑さを感じた読者もいるかもしれない。しかし、本稿の題である『公理と定義』を哲学の考え方を借りることで多角的な視点から考察し、それまで見えてこなかった定義と公理の在り方を発見するには、思惟を迷路の様に進めるほかに仕方がなかったのである。また、神の存在証明は哲学者が数学をどのように捉え、扱ってきたのかを解明するために必要な部分であったと断言できる。そして、数学と哲学を結び付けるそのやり方は少々荒っぽいものであったかもしれないが、これは、哲学に多大な影響を及ぼしたカントが分断し、ヘーゲルが忌避した哲学と数学の再開を果たすために行ったことである。それでも、「〈知〉の欺瞞」とならないように細心の注意を払い、多くの文献を参考にしてそれらは行なわれた。本稿で「公理と定義」を十分に考察できたということはできない。十分だというにはあまりにも射程が狭く、触れていないことも数多くある。しかし、新しい「数理哲学」の第一歩の粗描はできたと確信できる。

「基本的非対称性(反出生主義)」への反証

ベネターの反出生主義は〈存在/不在〉という排中律が適用された二項対立のそれぞれの項から帰結する結果の非対称性、つまり不在の優越によって正当化されている。ベネターの主張においては、存在と不在が比較されている。このとき、両者が比較可能なのはどちらも同じ「在」を共有しているからであり、両者の違いはその項に対する〈肯定または否定〉というアリストテレスの『形而上学』における、最も基本的な排中律の適用された二項である。

上記よりベネターの主張から次の3つの前提が導き出される。(1)存在は肯定し得る。これより、「存在は成立可能である。」という命題が真であることが帰結する。(2)存在は否定し得る。これより、「存在の非成立は可能である。」という命題が真であることが帰結する。(3)存在への肯定と否定、つまり〈存在または不在〉は、排中律を適用し得る二項対立である。

ここから、上記の3つの前提が妥当なものかを検討する。まずは、(1)である。これは、〈存在(有)〉が成立可能ないしは成立するという前提であるが、これはベネターの理論が西洋的な実在観と論理によって構成されたことに起因すると考えられる。しかし、これは世界中のあらゆる思想家・哲学者が共有している考え方ではない。つまり、(1)の考え方は普遍的なものではなく、むしろ古希哲学の伝統を引き継いだ西洋地域の特殊な哲学・倫理思想であると考えられる。それゆえ、この主張をすべての人類に適用するという試みは、西洋中心主義であり、単なるエスノセントリズムなのである。

上記では、〈存在(有)〉が成立可能ないしは成立するという考え方は世界中のあらゆる思想家・哲学者が共有している見解という訳でないと述べた。その例の一つは、仏教の般若経、およびそれを継承した龍樹の思想である。

般若経の代表的なものは、摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)である。この大乗仏教において重要な位置を占める経典には、次の有名な一節がある。すなわち、「色即是空。空即是色。」これは、「色は空であり、かつ空は色である。」ということを意味する。ここにおける「色」とは、物質的存在の総称である。そして、「空」は〈有(存在)/無(非存在)〉という二項対立の両者を否定したところの絶対的な〈無〉である。アリストテレス以来の形式論理学においては、対立する二項〈A/B〉においては、Aを否定することは、Bを肯定することであり、逆にBを否定することはAを肯定するということである。しかし、仏教論理学においては、対立する二項は相互に依存したもの、つまり「甲があるから乙が在り、かつ乙があるから甲が在る。」という考え方をする。それゆえ、対立する二項のいずれかを否定すれば同時にもう一方の項も否定されることになる。

また、「是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減」という節もある。この意味は、「諸法は空という様相を呈しているが故に、生成も、消滅も、汚垢も、浄化も、増加も、減少も、そのすべての成立が否定される。」ということである。この一節における「法」は、「真理」と「存在」という2つの意味があるが、それ以前の「色即是空。空即是色」では、「空」は「色」であると述べられている。このような文脈から推測すると、「色」に近い意味である「存在」と見做すのが妥当であると考えられる。そして、ここからの帰結として、諸現象の否定がなされるが、特に重要なのは〈生成/消滅〉という対立する二項の両者の否定である。上述した様に物質的存在(色)だけでなく存在一般(法)も空、つまり絶対的な〈無〉である。したがって、それらの成立は否定されるということが分かったが、ここからの帰結として、「不生不滅」ということが主張される。なぜなら、生成とは何らかの存在を成立し、肯定せしめることであり、また消滅とは何らかの存在の成立を否定することだからである。したがって、〈生成/消滅〉が成立するには存在が成立する必要があるのだが、それは既に「色即是空。空即是色」によって否定されているために、同時に〈生成/消滅〉の成立も否定されるのである。

上述した般若経の思想を継承した龍樹は、主著『中論』において「空」を理論的に基礎づけた。その著書において〈有(存在)/無(非存在)〉という二項対立の両者の否定は、15章で中心的に取り上げられている。その議論を要約すると以下のようになる。

1. 自性とは、作られたものでなく、かつ他に依存しないものである。
2. 自性が因縁(原因)から生じたならば、それは作られたものである。
3. それゆえ、自性が因縁によって生じるということは成立しない。
4. 自性は生成しないならば、自性は存在しない。
5. 自性が存在しないならば、他性は存在しない。
6. なぜなら、他の存在においての自性が他性と呼ばれるからである。
7. 自性と他性とを離れて存在は成立しない。
8. なぜなら、自性と他性によって存在は成立するからである。
9. もしも存在が成立しないならば、非存在もまた成立しない。
10.なぜなら、存在の変異が非存在だからである。

 ここまででベネターの前提(1)が必ずしも普遍的な考え方ではないことを示してきたが、(2)と(3)もまた同様であるということも分かった。というのも、龍樹は存在が成立しないならばその否定(=非存在)も成立しないということを示したからである。それゆえ、龍樹の思想においては(2)は成立しない前提であり、また(1)と(2)が否定されるならば(3)の二項対立も必然的に成立せず、ベネターの主張の前提は仏教の取り分け中観派の論理においては、否定されるものであるということが明らかになった。

しかし、仮にこれらの前提を認めたならば、ベネターの主張は成立するのだろうか。これも検証することにしよう。〈存在/不在〉からベネターの「基本的非対称性原理」からの帰結は次の2つである。すなわち(1)存在の場合は快楽と苦痛の生成であり(2)不在の場合は快楽と苦痛の不在である。

この時点でまず指摘したいのは、〈快楽/苦痛〉という二項対立がそもそも成立するのかということである(人間が経験する多様な感情・感覚・知覚をこの2つに還元、あるいはこの2つしか取り上げないというのは、恣意的な簡略化であるようにも思われるが、ベネターの主張においてはこれらが特に重要視されていることと見做し、それ以上は立ち入らないこととにする)。

画像3

上記の表をみればわかる通り、〈存在かつ不在〉あるいは〈存在でも不在でもない〉ということは書かれていない。したがって、〈存在/不在〉は排中律が適用された二項対立であると考えられる。しかし、この二項対立は〈A/非A〉という形式のものではない。その形式は(1)と(3)、(2)と(4)において用いられている。これはすなわち、存在するということは同時に〈快楽/苦痛〉を存在させるということを含意し、逆に存在しないということは同時に〈快楽/苦痛〉を存在させないということを含意するということである。これらの二項対立は同じ項の肯定と否定であり、それゆえ両者は比較可能であると考えられるが、〈快楽/苦痛〉はそうではない。したがって、これはそもそも二項対立として、比較可能なものとして、つまり〈快楽/苦痛〉という図式は成立しうるのかという疑問が生じる。言うまでもなくこれらは全く異なる感情である。にも関わらず、ベネター氏は両者を比較可能なものであると見做し、(1)(2)(3)(4)それぞれに「善い」「悪い」「悪くない」という三種の評価を下している。すなわち、(1)苦痛が存在ならば悪い、(2)快楽が存在ならば善い、(3)苦痛が不在ならば善い、(4)快楽が不在ならば悪くない、である。まず、このそれぞれの評価はベネター氏の独断ではないかという疑問が浮かぶが、多くの人はこれに同意するものと考えられるため、ここでは問題にしない。むしろ、ここで指摘したいのは(A)「悪くない」という評価と(B)(2)と(3)に同一の「善い」という評価が為されているいるということの2つである。

画像3

まず(A)から検討していくが、(1)と(3)を見ればわかる通り、快楽と苦痛は対立するものとされている。また、〈快楽かつ苦痛〉や〈快楽でも苦痛でもない〉という表現が見られないゆえに、これは排中律が適用された二項対立、つまり〈快楽/苦痛〉という図式が得られることとなる。そうであれば、快楽の否定は苦痛であり、また苦痛の否定は快楽であるということことになる。したがって、悪くないという評価は奇妙に思われる。つまり、(4)は、Xが不在ならば、必然的に快楽も存在せず、また快楽の不在は善い。という記述の方が正しいのではないか?しかし、快楽の不在が善いという言明は我々の直観に反する。しかし、これは「Xが存在しないならば」という条件下のことであり、もし「Xが存在する」という条件での快楽の不在ならば、「悪い」ということになるだろう。しかし、ここで奇妙なことに気がつく。もし「Xが存在しないならば」という条件の下で苦痛が存在しないならば、それははたして善いのか?ということである。もし「Xが存在する」という条件で苦痛が存在しないならば、それは善い。しかし、そもそも存在しないXに苦痛が存在しないということを存在者である我々がどのようにして判断できるのであろうか?これは、快楽の不在に悪くないという評価を下すということにも同様に当てはまることである。

次は(B)であるが、「Xが存在するならば、快楽も同時に存在し、また快楽の存在は善い。」における「善い」と「Xが存在しないならば、苦痛も同時に存在せず、また苦痛の不在は善い。」における「善い」は、同一の「善い」なのか、という問題である。この両者に共通するのは、「善い」のみであり、「善い」を除けば共通するものはなくなる。にもかかわらずベネターは、この両者に同一の評価を下しているのである。この両者の評価の要となっているのは、それぞれ「快楽の存在」と「苦痛の不在」である。これらにおける存在と不在を肯定と否定という風に読み替えて、「苦痛の不在」はすなわち「快楽の存在」であり、また「快楽の存在」はすなわち「苦痛の不在」であると解釈すれば、同一の評価が下されるのも妥当である。しかし、「Xが存在し、かつ『快楽の存在』はすなわち『苦痛の不在』である。」という言明は成立すると考えられるかもしれないが、「Xが不在し、かつ『苦痛の不在』はすなわち『快楽の存在』である。」という言明は成立しないだろう。というのもこの言明は、Xが存在しないにも関わらず、Xが快楽を感じていると主張することとになるが、これは明らかに不合理だからである。

以上のことから、この非対称性の表は誤りを含んでおり、その修正案として新たな表を提示し、「あなたの行為の結果として新たな存在が生じないように行為せよ」という命法が成り立たないことを示すことで本論考を終える。

その修正案とは、非存在が苦痛や快楽を経験しないということを存在者と同じ指標である〈快楽/苦痛〉によって評価することは不可能であり、我々は存在者である以上、非存在者が苦痛や快楽を経験しないということがいかなることなのかを知ることができないという不可知論であり、したがってそれに対する評価は「善いでも悪いでもない」とするのが、妥当であるというものである。この場合、(3)と(4)の評価が「善いでも悪いでもない」ということになるが、この場合Xの存在と非存在の非対称性という問題はどのような影響を受けるのか。この場合でも、非対称であるということには変わりがない。しかし、「善い」あるいは「悪い」と「善いでも悪いでもない」のどちらがより倫理的であるかという判断はどのようにすればよいのだろうか。その参考になるものとして以下のような表がある。

画像3

この図の(4)を見て頂きたい。「善い」はプラスであり、悪いはマイナス、しかし悪くないはそのどちらでもないので、0ということになっている。しかし、先ほども指摘した通り悪くないならば「善い」であり、したがってプラスにするのが正しいと思われるが、ここではこれ以上は立ち入らない。この0は悪くないではなく、「善いでも悪いでもない」を表すものとするほうが適切であると思われる。というのも、龍樹は『中論』24章18詩において以下のようなことを述べているからである。

およそ縁起しているもの、それをわれわれは空であること (空性) と説く。それは相対の仮説 (縁って想定されたもの) すなわち、中道である。

「善いでも悪いでもない」では、〈善い/悪い〉という対立する二項の両者が否定されているが、空においても〈存在/不在〉という対立する二項の両者が否定されている。そして、上記によればそれは中道であるというのである。ならば、「善いでも悪いでもない」も中道であると見做すことができ、それゆえ、プラスでもマイナスでもない0が適当であると考えられる。とすると、上記の図のScenario Aはプラスとマイナスの両者があるゆえに0であり、Scenario Bは0が2つあるゆえに0であり、したがって両者の対称性が成立するのである。もしこの「善いでも悪いでもない」を0とする論証が『中論』の記述を基にしたものであり、したがってその論理性に疑問を呈する読者もいるかもしれない。だとしても、「善いでも悪いでもない」がプラスにもマイナスにもなりえないことには変わりがなく、したがってScenario AとScenario Bが非対称であることが真であるとしても、両者のどちらがより倫理的であるかという判断は不可能であり、「あなたの行為の結果として新たな存在が生じないように行為せよ」という命法を正当化させるための原理とはなりえないのである。

これまでの議論から、D.ベネター氏の主張する「非対称性原理」は、西洋の、とりわけ分析哲学における形式論理や存在に対する考え方の影響が強く、ある意味では制約を受けた思考の下で構築されたものであったと考えられる。それゆえ、彼の倫理は、例えば日本における目上の人に対しては敬語を使用するという習慣の様に、西洋の分析哲学という地域の習慣における特殊なものであるといえるだろう。そのため、インドにおける思想によって彼の原理を検討してみると非対称とされていた原理はむしろ対称性を有するものであるか、あるいはそもそもAとBを比較することが不可能であるということが判明した。それゆえ、「あなたの行為の結果として新たな存在が生じないように行為せよ」という命法はこの原理に基づいて成立するものではなく、結果として反出生主義という思想にも疑問を投げかけることとなった。

性の終焉―否定から自由へ―

生得的決定論は危険な主張である。現状維持ないしは好ましからざるグループを生物学的には邪道であるとして排除するための「科学的」な口実としてたやすく利用されてしまうからである。
          ――スティーブン・J・グールド『個体発生と系統発生』

重要な特質はその人により、またその時ににより絶えず変化するものである。それゆえに、同一事物に対してさまざまな呼称や概念があるのである。しかし、日常において使用する多くの物――紙、インキ、バタ―、コートのようなもの――は極めて恒常不変な重要性を有し、また非常に固定した名称を有しているゆえに、我々は「それが指示する物との間に特別な関係がある」と理解することが、唯一の真なる理解の仕方であると信ずるようになる。しかし、このような理解の仕方が他の理解の仕方と比較して真理に近いという訳ではない。それはただ、我々にとって役に立つことが多いということに過ぎないのである。(…)ある事物の本質とは、その事物が有する諸特質の内の一つであって、かつ私の興味にとって重要なもののことである。私はその事物を、他の事物でその重要な特質を有するものの内に分類し、その特質にしたがって命名し、この特質を備えるものとして理解する。そして、このように分類・命名・理解する間は、その事物に関する他の全ての真理は、私にとって無いものと見做されるのである。〔強調は訳者による〕
                 ――ウィリアム・ジェイムズ『心理学』

1.本論考で主張されることは次の一言に要約できる。すなわち、〈あなたはあなたである〉。これは、無意味なトートロジーではない。というのも、主語の〈あなた〉は、本論考の読者を指している。これに対して、述語の〈あなた〉は、〈あなた〉を規定ないしは定義しようとするすべての「本質」を拒絶するところの〈あなた〉を指しているからである。つまり、主語において〈あなた〉は自己自身の存在を自覚し、述語において〈あなた〉は他者を認識し、また他者との差異化を行うのである。この両者の関係はちょうど写真のネガとポジの関係に相当する。そして、〈あなた〉は読者を指す矢印であってそれ自体に何らかの内容が有るわけではない。また、本論考はあらゆる性を否定する論考であり、かつ無限の〈性〉を肯定する。つまり、〈あなたはあなたである〉ということを否定し、〈あなた〉を規定しようとするすべての「本質」を否定することによって、〈あなた〉は、〈あなた〉であって他の何ものでもないことを絶対的に肯定するのである。

2.ヒンドゥー教ヴェーダーンタ派における代表的な人物シャンカラの思想を表す言葉として「梵我一如」というものがある。彼はウパニシャッド哲学やヒンドゥー教聖典を継承し、原因を必要とせず存立するところの宇宙の原理(Brahman)と、個人の本体である我(Ātman)は本質的には同一であると主張した。仏教中観派の祖であるナーガールジュナは、我(Ātman)は〈空〉であるとした。この〈空〉とは、有(存在)と無(非存在)はどちらも成立しないとし、この両者の二項対立を超越した絶対的な〈無〉を指す言葉である。シャンカラも我(Ātman)は有と無を離れたものであると主張しているが、仏教徒の我(Ātman)を〈空〉であるとする見解は斥けている。ナーガールジュナの思想は有と無を超越した絶対的な〈無〉であるのに対して、シャンカラは有と無を超越した絶対的な〈有〉をその思想の根本としてなのではないだろうか。そして、我々が目指す地点は〈空〉なのである。

3.本論考で論じられる主な問題は性と〈性〉の問題である。それゆえ、本論考で展開される理論はフェミニズムトランスジェンダリズム、マスキュリズムから強く影響を受け、またそれらを継承するものである。しかし、同時にそのいずれとも全く異なるものである。詳細は後述するが、本論考ではセックスのみならず、ジェンダーであっても否定する。「本質」とされる性を否定するのである。それゆえ、この論考は性の理論を思惟する多くの者からの批判を受けることだろう。しかし、批判を受けるということはその論文に大きな意義があったということを証明するということに他ならないのだ。

4.本論考ですべての性を否定するのはなぜなのか。という疑問が湧く読者も数多くいることだろう。それに対して私はこう答える。すなわち、それは〈性〉の自由の最大限の追求、性の支配からの脱出及び、無限の〈性〉を肯定する為である。性からの自由と〈性〉への自由のためには、すべての性を否定することが必要なのである。現時点ではこれは非常にパラドキシカルに思われることであろうが、すべての性の否定によって初めて無限の〈性〉を肯定することができるのである。したがって、本論考は性を否定することによって、近代的な男女平等観を肯定するのではなく、むしろ否定するのである。性とは、多様な〈あなた〉の〈性〉を均質化してしまうことであり、ここにおいて差異は無視されてしまう。〈あなた〉を性という枠組みに押し込めることは暴力である。我々は本質的性から自由にならなければならない。

5.本論考は社会変革を目的とするものではない。あくまで読者を縛り付ける本質的性からの脱出を手助けするものである。これはいわば読者との一対一の対話というカウンセリングであり、本質的性という病の治療である。ゆえに、本論考では性の否定はできても世にはびこる性差別、フェミニズム内部のトランスジェンダー排除に対する批判、LGBTの抑圧に対する直接的な批判はできない。それは、この論考では力不足であり、それは私の役割ではない。これは、著者の知識不足による所が大きい。

6.すべての人間は、生まれつき自由になることを欲する。その証拠としては、個人差はあるが歩行開始から2歳頃の幼児期に出現する第一次反抗期があげられる。というのは、その結果を抜きにしても、既に自由を愛することの故に親に対して反抗するものだからである。しかし、このことの内で最も反抗するのは親からの支配に対してである。しかし、我々はただ単に支配されている時だけでなく全く何事も支配されていない場合にも、自由をいわば他の全てのものよりも選び好むのものである。その理由は、この自由が支配よりも最も我々を幸福にし、豊かな創造性を発揮させてくれるからである。

7.上記のアリストテレスの著書『形而上学』における冒頭部分のオマージュは本論考の目的である〈性〉の自由を獲得することを基礎付けるものである。しかし、本論考では、本質主義に決定的な批判を加える。したがって、上記の本質主義的な自由の基礎付けもまた批判と対象となる。しかし、なぜ自由を求めなければならないのかという疑問に対しての一つの回答になることには間違いがない。それゆえ、上記のオマージュはあくまでも仮設的な方便として受け取ってもらうことが望まれる。では、本質主義的な基礎付けが無効なのであれば、先ほどの問いに対してはどのように答えればよいだろうか。それに対しては、〈自由は追求されるべきものである〉という命題を公理とするしかないだろう。これは、確かに根拠づけの放棄であるが、本論考では根拠づけの必要性は否定されることとなっている。したがって、本論考は自由を求めるものへ向けた独断的な論考であり、自由を求めないないならばここで読むのをやめてもらっても一向にかまわないのだ。

8.性という概念をを大雑把に分けるならば、それはセックスとジェンダーということになるだろう。一般的に、前者は生物学的なのに対して、後者は社会的なものであると考えられている。しかし、バトラーは自身の著書『ジェンダー・トラブル』においてこれらの定義に対し次のように述べている。

そもそも「セックス」とは何なのか?それは自然的なものなのか、解剖学的なものなのか、染色体的なものなのか、あるいはホルモン的なものなのか。そして、そのような「事実」を私たちに証明しようとする科学的な言説をフェミニスト批評家はどのように評価するのだろうか。セックスには歴史があるのか?それぞれのセックスには、異なる歴史、あるいはそもそもセックスに歴史など存在するのか。バイナリーオプションの可変的な構造のように、セックスの二元性がどのように確立されたかの歴史を暴き得る系譜はあるのだろうか?セックスの表向きの自然的な事実は、他の政治的・社会的利益のために様々な科学的言説によって生み出されているのだろうか?セックスの不変性についての論争が起こっているならば、おそらく「セックス」と呼ばれる構成概念は、ジェンダーと同様に文化的に構築されたものなのだろう。

ここにおいてバトラーは、それまでの「客観的」かつ「科学的」なものであるとされてきたセックスという概念に検討を加え、「生物学的」なセックス概念さえも社会的な利害関係のために、男性/女性という自然の性差が存在するかのように、文化的に構築されたものであるとし、またそれゆえにセックスという概念をジェンダーという概念に回収できるものであると主張しているのである。では、そもそもなぜこのようなセックス/ジェンダーという二項対立が生じたのか。バトラーはその原因を以下のように考察している。

セックス/ジェンダーの区別や、セックスというカテゴリーそのものは、性別化された意味を獲得する前の「身体なるもの」の普遍性を前提としているように思われる。こういった「身体なるもの」はたいてい受け身の媒体で、身体の「外部」と考えられている文化的要素からの書き込みによって意味付けられるもののようである。しかし、文化的に構築された身体についてのいかなる理論も、「身体」が受動的で言説に先行するものとして捉えられている場合には、一般性を疑う構成要素としての「身体」に疑問を投げかけるべきである。

9.ジェンダーもセックスも共に社会的に構築されたものである。であるならば、そのジェンダー/セックスを構築するところの社会とはいかなるものなのか。「社会」とは、英語の(society)に由来する訳語である。この語源を更に辿っていくと「社交的な」を意味するラテン語(socialis)にたどり着き、これは「仲間」(socius)と「~についての」(alis)の合成語である。また、社会学者のディルケームは「社会」について『社会学的方法の規準』中で次のように述べている。

社会は、諸個人の単なる総和ではなく、諸個人の結合によって形成され、それ固有の諸特性を備えた、特殊な現実性を示す体系なのである。個々の意識が与えられていなければ、確かに集合的なものは何も生じ得ないが、必要条件は十分条件ではない。なお必要なことは、それら諸意識が結合され組成されること、しかも一定の様式で組成されることであり、この組成からこそ社会生活は結果し、したがってそれこそが社会生活を説明するのである。集合しあい、浸透しあい、融合しあうことによって、個人的諸精神は、心理的と形容してもよいが、ただし新しい種類の心理的な個性を成す存在を生み出すのであるそれゆえ、そこで生じる諸事実の直接的かつ決定的な原因を探求すべきは、その個性の本性のうちにであって、構成単位の本性のうちにではない。集団は、その成員たちが孤立させられた場合にするのとはまったく別様に考え、感じ、行動する。だから、そのような場合から出発すると、集団の中で生じていることがまったく理解できない。一言で言えば、心理学と社会学との間には、生物学と物理-化学的諸科学との間にあるのと同じ断絶があるわけである。それゆえ,社会的諸現象が心理的諸現象によって直接に説明されるときはいつでも,その説明は誤っていると確信してよい。

10.上記のディルケームによる記述から分かるように、社会は個人から構成されるものであるが、個人を考察することによって社会を知ることはできない。それゆえ、社会はデカルト式の要素還元主義では解明することができないのである。フランスの政治思想家のプルードンによれば、社会は個人の総和を上回る集合力を生み出し、個人の意識とは異なる意識、すなわち「集合理性」を有すると考えた。また、プルードンは社会を個人ないしは集団の心理から構成される深層の「現実社会」と、我々が一般的に社会と呼ぶところのそれである可知的な表層の「公認社会」という対立する2つの概念に分けた。プルードンは、これらの2つの対立する社会概念に関して『手帳』において次のように述べている。

公認の社会とは、我々の眼に見えているような社会のことである。(…)現実の社会とは、絶対不動の法則にしたがって生き、成長している社会のことである。この社会は我々が社会と呼んでいる一時的な膿のかさぶたを、自らの生命によって支えている。

11.アリストテレスは人間を社会的動物(マルクスの言葉を借りれば類的存在)と定義した。たしかに、社会が我々に対して少なからぬ影響を及ぼすことは事実である。フランスの社会学者のデュルケームは「社会的事実」を社会学特有の研究対象と定め、これを「行為,思考および感受の諸様式からなり,個人に対して外在し,かつ個人の上に否応なく影響を与えることのできる一種の強制力を持つ『社会学的方法の規準』」事実である、と規定し、「固定化されていると否とを問わず,個人に対して外部的拘束を及ぼすことができるすべての行為様式であって,さらに言えば,固有の存在を享受しつつ,所与の社会の範囲内に一般的で,その個人的な諸顕現とは無関係のものである。『社会学的方法の規準』」と包括的に定義した。この社会的事実には「外在性」、すなわち個人の外部に存在する性質と「拘束性」、すなわち個人の思考ないしは行動を拘束するという2つの特徴がある。例えば、ほとんどすべての国・地域には他人に出会ったら挨拶をしなければならないという規範がある。この規範は個人の外部にあるものである。しかし、この規範は、他人との遭遇において個人に対して挨拶をしなければならないと考えさせ、またそのように行動させるものでもあるのだ。

12.上記の規範は、しかし必ずしも我々を拘束するわけではない。というのも、実際にはあいさつをしない人もいれば、自分の意志によって挨拶をしないという行動を選択することもできるからである。政治思想家のルソーはあくまで議論のための仮定ではあるが、あらゆる人間の間に社会性のない状態を仮定し、他者を認識することのない孤立した自然人たちが、自由に存在している状態を自然状態とした。我々は生まれる時も一人であり、また死ぬときも一人である。また、自分の気持ちや感覚は自分に一人だけにしか分からないものである。この問題についてオーストリア出身の哲学者ヴィトゲンシュタインは、著書『哲学探究』において「カブトムシの箱(Beetle in the Box)」という思考実験を行っている。この実験において各人は「カブトムシ」という文字が書かれた箱を持っている。その箱のその中身は自分だけしか見ることはできない。しかし、他人の持っている箱の「カブトムシという文字」だけは見ることができるというものである。その箱の中身はが各人によって異なる。変化している可能性や何も入ってない可能性も考えられる。したがって、カブトムシという箱の「中身」を語る事は不可能なのである。唯一語ることができるのは箱に書かれたカブトムシという「文字」なのだ。

13.しかし、現実を見れば個人は少なからず他人との間にある相互依存関係の恩恵に与っていることが分かるだろう。大工が居なければ屋根の下で雨風をしのぐことはできず、農家が居なければ飢えに苦しむことになり、医者が居なければ重大な病気に罹った時に貴方はただ死を待つことしかできないのである。ここまで考察したことから分かる〈あなた〉とは何か。それは、社会的存在(類的存在)でなく、かつ個人的存在でないもの、つまり、これらの対立二項の両者の否定におけるところのそれが〈あなた〉なのである。

14.本論考では性が全面的に否定される。したがって、当然セックスもジェンダーも否定されることとなる。7節のバトラーの引用においてセックスがジェンダーに回収されたために、セックスを検討することは不要であるように思われるかもしれない。しかし、我々が目指すのは本質的性の徹底的な否定である。それゆえ、セックスを文化的に構成されたものであるとし、ジェンダーに回収するだけであったバトラーの考察は未だ不十分なのである。それに加えて、〈あなた〉という存在が社会的存在としても孤立的存在としても成立するのならば、そのどちらかであるという主張は誤りであり、したがってそのどちらでもないということが帰結する。〈あなた〉が社会的存在でないのならば、社会的に構築された性が〈あなた〉を規定しているということは成立せず、それゆえにセックス概念の再検討が要請されるのである。

15.セックスとは何か。一般的にそれはジェンダーと対置されて生物学的なものであると考えられている。では、本当に「生物学的」セックスというものが成立し得るのかを詳しく検討していこう。まず、「生物学的」に男性/女性を規定するものとして挙げられるのは、性器・女性・男性ホルモン・(この女性・男性ホルモンというのも奇妙な名前である。単なる物質に過ぎないホルモンの構造に観念的な女性・男性性が含まれてるとでもいいたいのだろうか…これは私にマルクスの言う「物神崇拝」を彷彿とさせる)乳房・染色体・骨盤などが挙げられるだろう。このうち、性器・乳房・骨盤は手術によって変化させることができるものである。そうであるならば、これらの規定物を反対のセックスの形状に変化させる。あるいは、二元的セックスのどちらでもない形状に変化させたならば、そのときその者は何者になるのだろうか。そのセックスを失う、あるいは反転するのだろうか。また、ホルモンは注射ないしは服薬によって変化させることが出来るものである。この場合でも先ほどと同様の疑問が生じる。最後に残るのは染色体である。これは現在の医療技術では変化させることが出来ない故に、セックスを決定づけるもののように思われる。しかし、このような思考実験をしてみたらどうだろうか。オーストラリアのSF作家グレッグ・イーガンのある短編にはこんな話がある。その舞台は現在よりもずっと医療技術とIT技術が発達した未来であり、人の人格を完全にシュミレーションできる技術が確立されている。そのため、人は出生直後に脳にある装置を埋め込まれ、脳細胞が成長するスピードと同じ間隔で、装置が自己増殖し脳細胞の代替物として置き換わっていく。ある年齢に達すると、人間の人格と全く変わらないにもかかわらず、脳はすべてその装置に置き換わっているという存在が誕生する。そして、それはコンピューターにバックアップされ、永遠の命が保証されるという話なのだが、ここではそれは重要ではない。むしろ、重要なのはその存在のセックスは如何なるものなのかということである。その存在には染色体は存在しない。にもかかわらず、人間と全く同じようにふるまう。ここにおいて読者はセックスを決定づける物理的・科学的・生物学的な要素がどこにも存在しないことを自覚する。本来〈仮〉である性を本質ないしは実体として扱うのは、蜃気楼を実在するものと勘違いすることとと同じである。このように、セックスとは単なる妄想に過ぎないのである。

16.しかし、と読者は思うかもしれない。それは、あくまで仮想されたフィクションの中での話であって、現実ではない。にもかかわらず、著者はそれを現実世界の性の話に当てはめようとしている。思考実験というものは実現可能な物でなければ、単なる妄想に過ぎない、と。しかし、私はこう指摘する。すなわち、フィクションの小説、アニメ、漫画などにおける登場人物に対して我々は性を見出す。ここで我々が見出しているのはあくまで「生物学的」性である。というのも、ある人々はポルノ漫画やアニメーション・官能小説をマスターベーションのために購入するからである。マスターベーションとは、言うまでもなく社会的に構築されたものではなく、生物学的な行為である。マスターベーションが生物学的行為であるならばその対象となるポルノ漫画・ポルノアニメーション・官能小説には当然生物学的な性が見いだされているということになる。しかし、ポルノ漫画・ポルノアニメーション・官能小説はいずれもフィクションに過ぎない(仮に実際の出来事を元にしたものがあったとしても同様であるが、その理由は後述する)。漫画はインクの染みであり、アニメは光の明滅であり、小説は記号の羅列である。これは、写真や映画、音声などでも同様である。というのも、写真はその人物そのものではなくインクの染みであり、映画も光の明滅であり、音声は空気の振動である。これらのどこに生物学的な要素があるのだろうか。このように、我々はたとえそれがフィクションであったとしてもそこに「生物学的」な性を見出し、それを男性/女性ないしは他の性であると見做すのである。

17.8節で引用したディルケームの主張から分かる通り、社会は個人・心理・生物学的な考察から解明することはできない。したがって、社会的な構成概念であるジェンダーの再検討もセックスの場合とは別様の仕方でしなければならないと考える読者もいるかもしれない。しかし、本論考の主な主張は〈あなたはあなたである〉というものであった。そして、社会変革を目指すものではなく、あくまで読者との一対一の対話であるということも先に述べた。したがって、ここでは社会におけるジェンダーを論じるのではなく、社会から影響を受けた個人におけるジェンダーを論じることにしたい。それゆえ、ここで「社会的ジェンダー」と「個人的ジェンダー」という2つのジェンダーが存在することが分かるが、本論考で論じるのはあくまで後者である。社会を背景とした個人を考察するには、「集合理性」ではなく、むしろ社会の中における個人を考察しなければならない。ここで読者は〈あなた〉が社会的存在でも個人的存在でもないのではなかったか、と思うかもしれない。しかし、そもそも何かを否定するにはその何かがなんであるかを知らなければならない。したがって、ここでは社会的存在を考察するのである。

18.個人的ジェンダーとセックスはある意味では対照的である。というのも、個人的ジェンダーを規定する要因は実にさまざまであるがそれらはすべて同一の根拠で否定されるのに対して、セックスを規定する要因は個人的ジェンダーと比較してごくわずかであるが、それらを否定する根拠は各要因ごとに必要であったからである。

19.個人的ジェンダーを規定する要因はなんであるかといえば、外見・趣味・習慣・言葉遣い・性格などである。これらの要因が二元化されてその対立する項のそれぞれが男性と女性に割り振られることで個人的ジェンダーは規定される。このために、この二項対立を脱構築することによって性に関する問題を改善しようという試みもあるが、本論考はそもそもある要素と集団を恣意的に結びつけるということが根本的な問題であると考える。ゆえに、二項対立をの脱構築というのは対症療法的であり、問題の表層しか解決できていないのではないかと私は考える。したがって、本論考では上述した根本的な問題の解決を試みたいと思う。

20.セックスの否定において用いられた論理が個人的ジェンダーの否定においても同様に用いることが出来る。そして、先の例の外見・趣味・習慣・言葉遣い・性格をそれぞれ検討してみてもそこに女性性あるいは男性性なるものは見いだされない。これらは丁度マルクスの言う「物神崇拝」と同様の構造を有している。すなわち、なんの意味も持たないシニフィアンを男性/女性的なるものへ変更して表現し社会行動を行うからある集団がジェンダーを有するのにも関わらず、ある集団が生まれつきジェンダーを持っているから男性/女性的なるものとして振舞うのだと考えられてしまうのである。

21.個人的ジェンダーの解体に応用できると思われる装置はソシュールの言語論である。ソシュールによると、言語とは記号の体系であり、記号とはシニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)が結合したものであるというのである。そして、このシニフィアンシニフィエの結びつきは、「恣意的」なものである。したがって、日本語の「木」という語は、英語における「tree」というシニフィアンと結びつくこともできるし、ドイツ語における「Holz」というシニフィアンと結びつくこともできるし、イタリア語の「legna」というシニフィアンと結びつくこともできるのである。さらに、この理由から人工言語を作るときには「木」をいかなるシニフィアンと結び付けてもよいのである。このシニフィアンシニフィエの結合によって記号が成立するという構造は、ある要素と集団を結合することによって個人的ジェンダーが成立するという構造と一致する。したがって、個人的ジェンダーとは記号の一種であり、また要素と集団の結合は恣意的なものであり、本質的ではないということが分かるだろう。ジェンダーもまた妄想なのである。

22.ここまででセックス及びジェンダーの本質は〈空〉であることが証明された。なぜ〈空〉であるのかというと、何かを無いと主張するにはその何かの存在が必要なのである。つまり、リンゴが有るから、ここにはリンゴが無いと言えるのであって、そもそも存在しないものに対して、無いと主張するのは不合理である。一度切ったリンゴをもう一度切ることができないのと同じように、無いものに対してさらに無いというのは不可能なことである。

23.本論考で論じてきた性空説は性別二元論でもなければ一元論でもなくまた多元論でもなく、むしろ無元論である。本論考では本質なものとしての性は否定する。しかし、同時に無限の〈性〉を肯定する。性が〈空〉ならば、〈男〉がスカートを履くのも自由であり、〈女〉が坊主頭にするのも自由である。これは事実上の無限の〈性〉の在り方の肯定である。ゆえに、性空説は性別無元論であるとともに性別無限論なのである。すべての性を否定するのに無限の〈性〉を肯定するとは如何にという疑問が浮かぶかもしれない。それに対する答えは性の唯名論化である。性とは名称に過ぎないのである。したがって、アーティストが活動名を名乗るように、アクセサリーをつけるように、自分の好きな〈性〉を名乗る自由が〈あなた〉にはある。

24.〈あなた〉とは現在の〈あなた〉である。〈あなた〉は過去に生きるのでも未来に生きるのでもなく〈今・ここ〉に生きている。過去に支配される必要もなければ、未来への投企に拘束される必要もない。〈あなた〉は不断に変化し続ける。思想の生涯を通じての一貫性などに支配される必要はない。既に過ぎ去った過去になぜ支配される必要があるのだろうか、明日死ぬかもしれない未来になぜ投企をする必要があるのだろうか。死を意識してダス・マンから脱したいのであれば、むしろ投企などはやめるべき事である。そうしたとしても、〈あなた〉を規定する「あなた性」などはいかなるところにも存在しない。〈あなたはあなたである〉からである。

25.すべての性の否定の後にするのは新たな無限の〈性〉の創造である。

麦酒の略収 

長年の不平等に対する世界中の人々の反感、彼らの胸の鼓動や新しい生活の形を考え、試みることに共感すること、それが革命的論文がなすべき重要な義務である。革命を成功させるのは希望であり、絶望ではない。     
                ーピョートル・クロポトキン『ある革命家の思い出』

 

人は皆、<労働>をやめるべきである。
<労働>こそが、この世のほとんど全ての不幸の源泉である。
この世の悪と呼べるものはほとんど全てが<労働>、あるいは<労働>を前提として作られた世界に住むことから発生するのだ。
苦しみを終わらせたければ、我々は<労働>をやめなければならない。
                       ーボブ・ブラック 『労働廃絶論』

無政府主義とは、個人の自由と社会の平等を最大化を目的とする思想である。

Ⅰ.万人の富裕

1.今日における我々は実に富んでいる。それにも関わらず、なぜここまで貧困者が多いのか?なぜ多くの人々はブラック企業での労働を強いられているのか?今まで人類が積み上げてきたすべての技術・知恵があるにも関わらず、その上数時間の労働で万人の安楽を請け負うに十分な生産機関があるにも関わらず、なぜ高額の賃金を得るサラリーマンでさえも安心ができないのか?それは、生産に必要なあれこれ、すなわち土地、学識、鉱山、道路、機械、食物、住居、教育、学識の殆どが少数者に独占されているからである。

2.理学と工学、理論と応用、発見と発明、頭脳と身体―これらはすべて協働に働くものである。いずれの発見も、いずれの進歩も、いずれの財富も、みんな過去から現在にかけての心身による勤労の成果である。その成果は一人の天才が成し得たものももちろんある。しかし、そこに至るまでの過程では、名もなき職人が代々を重ねて発見した一部分の改良があり、名もなき幾千もの発明家の小さな発見があり、名もなき労働者がそれらを運用することでその有用性を実証したことがあってのものである。したがって、多くの人類の財産の極小の一片ですら、少数の者が占有すべきものではない。

3.独占は人類社会全体に蔓延している。しかし、上に述べた理由から独占は不正であり、万物は万人のものであることは明白である。万人がそれを必要とする以上は、万人がその生産に関わっている以上は、万物は万人の為にあるのである。たとえ一台の機械であっても独占を許していい道理はない。したがって、「この機械は私のものだ。もしこれを使いたいならば、これで作ったものを一定数私に収めなさい。」などという権利は誰にもない。これは横暴である。繰り返し宣言しよう、万物は万人の為にある。すべての人間が正当な労働をしたならば、彼らは正当な分配を得る権利を有している。その分配は、彼らの生活の安楽を保証する物でなければならない。「労働の権利」なるものはもはや不要である。これは、賃金奴隷として搾取される権利を意味するに過ぎない。むしろ、宣言されるべきは「安楽の権利」すなわち、この世のすべての人類の安楽を保証することである。

4.万人の富裕は夢ではない。それは必ずや実現できることである。たしかに、福岡県北九州市門司区で2006年4月から5月にかけて二ヶ月間で3名の餓死が起きた。そして、コロナ禍の影響で学校給食がないために一日一食の生活を強いられている子供達がいる。しかし、その一方でコンビニやスーパー、飲食店などでは大量の食料品が廃棄され、また価格の減少を抑える為の生産の制限や、大量の農作物の廃棄などが為されている。つまり、飢餓の問題は食料の分配の問題なのである。

5.万人の富裕を実現するためには、莫大なる資本―都市、家屋、牧場、耕地、工場、道路、教育を私有財産として認めるわけにはいかない。所有者に独占させておいてはならない。我々の祖先が辛苦の末に獲得し、建築し、工夫し、獲得した莫大な財産は共有のものとならなければならない。人間の利害を協働にして、そこには万人の最大利益が生じなければならない。それゆえ、「収用」というものがなければならない。

6.収容ということ、すなわち人間の安楽に必要な一切の事物をもって共産制に移行すること、それは歴史が21世紀の人類の眼前に提供する問題である。しかし、これを立法によって解決することは不可能である。現在の政府でも、あるいは通常の政治改革から生じるいかなることでも、解決をなしえないことは自明である。それゆえ、我々に必要なのは社会的革命である。

7.従来では、革命のドラマチックな方面ばかりが強調され、その実際的方面はほとんど省られることが無かった。最初の間の闘争や戦闘はすぐに終わりを告げる。したがって、旧組織の転覆されられた後のもろもろの活動の開始が革命の真の出立点である。

8.革命が行われている間にも人々は苦しんでいる。製造所は休止し、工場は閉鎖し、産業は停止する。労働者はそれまでの賃金の最低額すら受け取ることができなくなる。食料の価格は益々高騰する。この間、人々は忍耐することを強いられる。したがって、いかにしてこの困難から抜け出すかということが一番の問題になる。そして、この問題に対する解決法はただ一つ、すなわち衣食住を万人に漏れなく分配することである。我々はこれを宣言し、それを実現するために働かなくてはならない。これは、万人の安楽に必要な一切のものー食料、衣服、住宅ーを直接かつ迅速に占有して初めて実現されることである。

Ⅱ.無政府共産制

1.私有財産を禁じた以上は共産的無政府の方針によってすべての社会を組織しなければならない。無政府は共産制を生じ、共産制は無政府に至る。両者は平等の追求にとっての両輪である。我々の共産主義旧ソ連などにおける共産主義でもなければ、かつてのドイツの国家社会主義でもない。我々の共産主義は「無政府共産主義」である。政府を持たない共産制―自由の共産制である。これは、自由における2つの理想の総合である。すなわち、経済からの自由及び、政府からの自由である。

2.今日では、あらゆるものは相互に依存した関係によって成立している。生産の各部門が互いに他の一切と組み合わさる現在の工業において、工業製品を独立した個人によるものであると見做すことは誤りである。それゆえ、この万人の貢献によって成り立っている製品から、各個人の配当額の差を計算することなど不可能である。したがって、賃金制度も放棄しなければならない。財産の新形式は、同時に報酬の新形式も要請するのである。

3.国家なき社会という思想に多くの反対が寄せられることに疑いの余地はない。というのも、我々のほとんどは幼少の時から国家を必要不可欠なものとして教育されてきたからである。しかし、実際の社会を見れば政府にできることがいかに微々たるものであるかを実感できるだろう。日常における多くの物事は政府の干渉を必要としない。その中でも重要な役割を果たす企業間の取引でもほとんどの場合政府による介入は無い。企業間の取引は相互の信用を基礎とするものである。契約を遵守することの習慣や信用を傷つけないよう努めることは、十分にその関係を維持せしめるのである。

Ⅲ.収用

1.収用とは、何人たりともいかなる欠乏をも感じることなく、その生活を送ることができるようにするための手段である。その社会においては、僅か3~4時間の労働の後には、文明がもたらした一切を享受する権利を有し、ある人は芸術において自らの感性を発揮し、ある人は科学において自らの知性を振るい、ある人は宗教において自らの信仰を深めることになるだろう。

2.文明社会においては、全ての事物が互いに関係しあっている。したがって、全体を変革せずにその部分を改良することは不可能である。それゆえ、我々は全ての私有財産を攻撃せねばならない。このために、食料、衣服、家屋もこの例外とならず、公共のものとして収用されることとなる。

Ⅳ.食料

1.「食料よ!革命が必要とするのは実に食料である。」将来の革命が社会的革命であるならば、その目的のみならず方法においても、従来の反乱とは異なるものでなければならない。新たな目的を達成するには新たな手段を必要とするのである。その手段とは、革命の第一日から最後の時まで自由のために戦うすべての地において、何人たりとも飯にありつけないなどという事態に至らないよう努めるというものである。なぜなら、万人は飯に対する権利を持っているからである。そして、現在の食料は万人に供給するには十分な量がある。したがって、万人の為の飯を最重要課題として定めて初めて革命は現実のものとなるのである。

2.では、実際にはどうすればよいのか、それはまず反乱地方の倉庫や家畜市場、スーパーなどで一切の食料を占領する。次に有志の者を募らせて各店舗や倉庫において大体の物品目録を作成させる。2日間ほどすれば、有用の食料、その貯蔵の場所、その分配方法において十分精密な計算表が出来上がるだろう。そして、その間も万人に必要な食料は供給しなければならない。特に栄養価の高いものは病人や子供などの弱者のために用意しなければならない。もし、なんらかの消費品が不足したならば、最も急を要する物に与えなければならない。

3.百軒の家に別々にコンロを使うよりも、一ヵ所で百世帯分の調理をするほうが遥かに経済的である。(経済性以外の利点もあるがそれは後の章で論じるつもりである。)とはいっても、料理の好みは一人一人異なっている。したがって、好まざる食事の強制が懸念されるかもしれない。けれども、基本的な調理だけを一ヵ所で行い、後に個人が好きなように味付けをすれば、この問題は解消される。また、アレルギーや体質などの事情から摂取できないものがある場合は、それに合わせて別の料理を用意したとしてもこの経済性に大きな影響が出ることは無い。また、自分で料理をしたいという者がいるのであれば、それはその者の自由である。食事は家族と団欒で食べることも、孤独のグルメを楽しむことも、仲の良い友人と共に食べるのも個人の自由である。

4.しかし、一か月もすれば食料は底を尽きてしまうだろう。したがって、如何にして新たな食物の共有を為すべきかを講じなければならない。この問題を解決するには当然のことながら、農業生産者及び畜産物生産者の協力を必要とする。彼らに生活に必要な物品―食物、衣服、住居などのみならず、嗜好品―酒、タバコ、菓子なども渡す必要があるだろう。そして、彼らが農作に必要な道具をもっていなかったならばそれらも供給する必要がある。また、人手が不足している場合には、有志の者を募らせて農業・畜産の知識と経験を持つものに教えを乞い、協力しなければならないだろう。工業製品も農業・畜産の場合と同様にするべきである。手段はこれだけではない。食料がまだ余っている地方に赴き、支援を要請するのも手の一つである。

5.革命の際には、できる限り諸外国に依頼しないようにしなければならない。というのも、諸外国から食料品が輸出されているにしても、それはその国にそれらの品が有り余っているという訳ではない場合が多いからである。それは、農業者が過酷な労働の末に生産されたものである可能性が高い。工業製品もこれと同様である。

Ⅴ.住居

1.革命時でも平時でも、労働者はどこかに住まなければならない。我々にはその頭上に屋根がなくてはならない。それがすべての人に行き渡る為には住居の収用ということが必要になってくる。収容に着手されるや否や有志者の団体が現れ、マンションやアパート、一軒家などが調べられる。その調査において、空き家や人数に比べて広すぎる家や逆に狭すぎる家が判明するだろう。2日もすれば上記よりも細かい情報が集められ、その全部の目録や統計が作成されるだろう。そして、人数に比して狭すぎる家に住む人々はより広い家へ、住居を持たない者は空き家へ、広すぎる家に住むものは適切な広さの家に住むことになる。

2.しかし、このような処置をしたところでやはり他性の不平等・不公平は発生することになるだろう。しかし、問題は不公平をいかに小さくするかというところにあるのである。それだけでなく、一切の住居の割当ですぐに絶対の平等を確立しなければならないわけではない。もちろん、最初の内は多少の不均衡は有るだろう。しかし、とび職も大工も生活の保障を得られると分かれば、彼らがもつ技術を以て1日2~3時間の勤労をするくらい厭わないだろう。そうなれば、一定の期間を経た後に現在立っているものよりもずっと便利かつ立派な住居が地面から屹立することになるだろう。

3.革命において我々は、すべての人々に住居を収容して無料、すなわち家屋の共有と各世帯が相応の住居を得る権利を宣言しなければならない。これによって私有財産に対し致命的な打撃を与えることが可能になるのである。

4.しかし、我々はどのような革命であっても多少の日常の攪乱が発生することを忘れてはいけない。この旧制度・旧社会からの大いなる跳躍が何の物音もたてずに静かに実行できると考えていることは、大きな誤りである。混乱は必ず発生するだろう。しかし、それが全くの破壊になってはならないことは言うまでもないだろう。我々は革命に付随する弊害を最小のものとしなければならないのである。

Ⅵ.衣服

1.人間が人間たる生活を送るために必須となる要素である食料、住居をこれまで論じてきた。したがって、残るは衣服の問題が残ることになる。この問題でも食料で講じた手段と同じである。すなわち、衣服を売買・貯蔵している一切の店舗・倉庫を占領するのだ。そして、その戸口を万人に開放し、誰でも必要なものを取ってよいことにすべきである。私有制はもはや撤廃されたのだ。

Ⅶ.財源

1.社会がその市民に生活の必要品(当然、ここには嗜好品や娯楽品なども含まれる。)を保証すると言う以上は、生産の為の土地、資本、工場、輸送等を占有・収用され、社会に還元される。そして、生産の財源といかなる生産物が万人の安楽を増進するかを研究しなければならない。

2.労働者は剰余価値を少数者に搾取される。ここにある真の弊害は、剰余価値が労働者の手に渡らないことではない。むしろ、剰余価値が存立することそれ自体である。そこにおいて、労働者は生産の内の僅かな一部分を得るために彼らの労働力を売るということが起こっているのだ。

3.我々は、最小限の労働力で最大限の生産を目標としなければならない。労働者が生産機関を使用するのに、その所有者に使用料を払わなければならない場合は、あるいは所有者が社会の必要よりも自己の利益の最大化を図る限りは安楽は極めて少数者だけが享受できるものとなってしまうだろう。

4.人は衣食住を生産するためには一日4~5時間、週5日間ほどで十分である。そのためには効率を最大化する必要がある。機械は積極的に用いなければならない。また、今日ではAIが著しい発展を遂げ、これも積極的に活用せねばならない。これらの発展いかんによっては、上記の労働時間はより短くなるかもしれないのである。残りの時間は各々の欲求を満足させるために使うことができるのである。

Ⅷ.贅沢の欲求

1.しかし、人間は食う、住むなどのことばかりを生きる目的としているわけではない。食欲や住むべき場所の安定が満たされたならば、直ちに他の芸術や学術への欲求が突出来るのである。人生の目的は各個人によって異なっている。社会が無政府共産制に移行すれば各人の個性は益々発達する。したがって、その欲求も様々なものになるだろう。

2.もし、人のその日々の労働のほかに、各自の嗜好にあった一個の快楽も得ることができなければ、あらゆる悲嘆の避けがたき人生は、果たして生きる価値のあるものなのだろうか。すべての人は芸術的及び学術的な欲求を有する。しかも、無政府共産制の強みは人類のゆうするすべての知性と感情を理解し、いかなるものにも序列をつけない点にあるのである。

3.無政府共産制の社会においては今まで思想に触れてこなかった者が思想や詩歌に触れる機会を得ることになるだろう。したがって、自らの思想を世に広めたいと希望し、それを実行する者は多くなるだろう。それゆえ、出版される書籍は今までよりもいっそう多くなるだろう。このような社会では少しはつまらないものが出版されることも多くなるだろう。しかし、同時に印刷物は多くの肥えた目によっていっそう精読されることになる。書籍が訴える読者の範囲は一層広くなり、皆良好な教育を受けて、一層判断力に富んでいるだろう。

4.無政府共産制の社会では、皆が良好な科学教育を受けることができる。そしてその興味に応じて諸分野の協会に属することになる。今日では百人くらいで研究・調査をしているところに、我々の目指す社会では、一万人もの人々が参加することになるだろう。それゆえ、今日では二十年ばかりかかる研究がわずか一年で成し遂げられるであろう。

5.無政府共産制の社会では、必要品の生産に数時間をささげた後で、一日5~7時間の自己の自由にできる時間で、各人の嗜好に応じて贅沢の欲求を満たすのである。無数の組合は、それらを供給することに着手する。今日極めて少数の特権階級のものとなっているものでも、万人が得られるようになる。各人はこれによってよりいっそう幸福となる。人々は書籍でも、美術品でも、他のものでも、自分の望みの物を得るために、単調に思える仕事も鼓舞され、一種の気晴らしになるのである。かくして、主人と奴隷の差別は撤廃され、人類の幸福のために皆が働くようになるのである。

6.そして、忘れてはならない重要なことは上記のような「高尚」なもの以外の贅沢、すなわち酒、タバコ、セックス、ドラッグ等のものである。無政府共産主義社会ではこれらはすべて個人の自由として認められる。むろん、不倫も乱交も自由である。

Ⅸ.労働

1.万人が資本から解放された社会では、労働は愉快なものになるだろう。今日では、多くの問題があるために、上記のような主張は空想的に思われるかもしれない。しかし、無政府共産制の社会はそのようなことがかえって生産の不利益になることが分かっているので、そのような問題を一掃する。

2.サービス残業長時間労働、休日出勤による弊害は黒田祥子氏が2017年に発表した論文『長時間労働と健康,労働生産性との関係』で詳しく論じられている。その一部を参照すると、「次に、労働時間と生産性との関係についてみていく。(中略)しかし、最近では長時間労働疲労等を増すことを通じて、限界生産性を低下させることを示す定量研究も報告されるようになってきた。(22f.)」との記述がありまた、「睡眠時間の低下が生産性を顕著に低下させることは多くの文献が示してきており(中略)、過重労働は睡眠時間の減少につながる結果、仕事中のミスが増え,ぼんやりが増えることにもつながる(23f.)」との記述もある。

3.無政府共産制の社会においては上記のような実証的データに基づいて、労働環境を整備する。したがって、この社会においては労働は一種の快楽になり、安楽なるものとなることに疑いの余地はない。不衛生な状態は社会全体にとって不利益なので、忌避されるような仕事は一掃されるだろう。自由人たる我々は、そのような環境を創出しなければならない。それゆえ、仕事は愉快なものとなり、生産力は大幅に拡大するだろう。今日においては、それが例外であっても我々の目指す社会ではごく当たり前のこととなるだろう。

4.無政府共産制の社会においては、医者とライン工の間に差別は認められない。これは、マルクスらが立てた複雑労働と単純労働の区別であるが、これはすなわち、医師の一時間の仕事はライン工の7時間分の仕事に匹敵するという主張である。我々の目指す社会においてはこのような差別をしないどころか、人の集まらない仕事にはそうでない仕事よりも高い給与が支払われるのである。なぜなら、今日の科学者や医師がライン工の等の労働者よりも何倍も多く儲けているとしても、それは彼らの「努力」の賜物ではなく、教育・養成の独占によるものであるからである。また、無政府共産主義の社会では本人の意志によりのであれば売春は自由である。

Ⅹ.生産と消費

1.社会を論じるに当たっては、国家(=全体)を本にしてその枝葉として個人を考えるのではなく、まず個人を起点として自由な社会に至るという方法が採用されなければならない。また、生産、交換、税金、政府などを論じる前にまず個人の欲求とそれをいかに満足させるべきかを論じなければならない。生産の手段は欲求の次に来なければならないのである。また、欲求の満足は人間の精力の最小の消耗によって為すための方法も研究する必要がある。かくして、社会科学たる経済学は厳密な自然科学となるのである。

Ⅺ.分業

1.生産の分業が社会にとって有用であるとの主張は誤謬である。というのも、ある労働者は、同じライン作業を何時間も何年も続けていくうちに、その知性や感性をすり減らしてしまうからである。また、ある労働者は体力仕事ばかりをして思考を働かせることから除外されている。その一方で、生産にほとんど関わらずに思考を独占している者もいるのである。

Ⅻ.反論

1.まず、第一に「もし万人の生存が保証され、人が労働によって賃金を得る必要が無くなったなら誰も働かなくなるだろう。」という反論が予想される。しかし、労働の形態が賃金制であってもそれに見合った給与が得られることはほとんどない。というのも、剰余価値が必ず資本家に搾取されているからである。賃金労働は奴隷の労働である。それに加えて、既に2,3の資本主義的経済学者でも人が生産的労働をする動機は貧困への恐れからではないことを主張している。

2.第二に、「万人が自分が働かなくてもよいというのであれば、皆が労働の負担を他人に押し付けるであろう。」という反論も予想される。しかし、これは今日の労働形態の劣悪さに起因する特殊なものである。これが、もし衛生的な環境で、かつ一日僅か4~5時間であれば状況は異なってくるだろう。

3.また、第三に「如何に労働を楽しくするような環境が整備されたとしても、労働を拒否する者は現れる可能性がある。」という反論が出るだろう。しかし、もしそのような者がいたとしてもそれはごく一部であろう。ある企業が一人の労働者の欠勤の為に倒産することなどはほとんどあり得ない。もしも、ある労働者が粗雑な仕事をしたり、同僚の妨害をしたりするのであれば、その労働者はその労働環境から追放すればよいのである。あるいは、その労働者は怠惰なのではなく単にその仕事が性に合わないという可能性も考えられる。千人の人間がいれば千の個性があるのである。社会に合わない何者かがいる場合多くの人はその原因を究明しようとせずに、怠惰であるだとか、罪悪であるなどどいう風に決めつけてしまうのである。

ⅩⅢ.教育

1.学校で怠惰な者と思われている子供は、その教え方が悪かったということに起因することが少なくない。また、貧困から良質な食事をとることが出来ず、それが脳に影響していることもある。語学が苦手な生徒でも数学はできるというのは珍しいことではない。

2.無政府共産主義の社会の教育では、子供の脳に知識を詰め込むようなことはしない。親の重圧によって勉強が苦痛なものとなることは認められない。そして、書物ではなく自然によって教えることもより多くなるだろう。木の高さを測らせて幾何学を教え、花を摘んだり、海で魚を取ることによって自然科学を教え、魚を取りに行くための船の作成で理科を教えるのである。このようにして、知は快楽に強く結びついていることを教えるのである。これは、教育の最初に教えなければならない重要な事である。

3.生徒が100人いるならば100通りの異なる教授法が必要である。一人の大臣が制定する教育方針は子供を鋳型に入れて、国家の都合のいい人間を作成するためのものである。学校を監獄にしてはならない。学校は自由でなければならない。無駄な校則は全ては廃されなければならない。男女で頭髪の長さを規定するなどもっての外である。生徒の自主性を最大限に尊重せよ。部活動の強制は自由への反故である。彼らが望むならばその望むことを指せればよいのである。決して強制してはならない。教師は最低限の教師でなければならない。教師は支配者となり権力を行使してはならない。

4.すべての教育は万人に開かれたものでなければならない。もし学問を望む者がいれば教育機関はそれを拒否してはならない。むろん、教育費はすべて無償である。興味があれば行き、つまらなければそこを自由に去ることが出来る。

マルクス思想の要点

Ⅰ.初期の社会主義思想

社会主義の先駆者となったのは、フランスのサン・シモンやチャールズ・フーリエ、イギリスのロバート・オーウェンらの思想家たちである。

サン・シモン
シモンはフランスの貴族階級の生まれであった。しかし、ルソーの影響を受けた彼は1775年4月19日から1783年9月3日までに起こったアメリカ独立戦争に参加した。シモンは社会のすべての成員が働く社会制度が作られなければならないと考え、また科学と産業の緊密な連携によって実現される計画的組織の必要性を主張した。また、産業者(資本家や科学者、労働者など)が自主的かつ合理的に生産に携わり、搾取(他人の労働の成果を無償で取得すること)のない理想的社会を構想した。

チャールズ・フーリエ
フーリエは、過剰生産によって引き起こされる恐慌を生み出す資本主義制度の無秩序性を批判し、収入の分配が資本・労働・才能という三つの基本原理によって規定されている独自の理想的な農業共同体である「ファランステール」を構想した。

ロバート・オーウェン
オーウェンは、産業革命が富の蓄積もたらしたにも関わらず人民の貧困が増大している社会の矛盾を指摘した。しかし、彼は機械の出現とその普及の歴史的意義を正当に評価してもいた。それゆえ、彼は自分の経営する工場の労働者を人間的に扱う経営をしていたのである。彼は私有と宗教とブルジョア的家族を根絶させ、愛と協働による独自のコロニーを組織することを提案し、その実現のためにアメリカで人道主義的な共産村(ニュー・ハーモニー村)を作ろうと試みた。その後に、彼は労働組合や協働組合運動を指導して、労働者の権利向上に力を尽くした。

初期の社会主義思想の問題点
彼らは、資本主義の有する矛盾を鋭く指摘し、人道主義的な立場から、搾取のない平等かつ労働者中心の理想社会を構想した。しかし、現実社会の科学的分析を欠いており、理想社会の実現の為の具体的な手段を持たなかった。それゆえ、マルクスらは彼らを「空想的社会主義者」であると批判した。

Ⅱ.フォイエルバッハの哲学

フォイエルバッハ唯物論
フォイエルバッハは認識能力における感性を重視し、感性によって捉えられる世界を実在であると見做した。それによって、ヘーゲルの観念論を転倒させ、そこから唯物論的な要素を引き出したのである。

フォイエルバッハ無神論
もう一つは、フォイエルバッハ人間学を提唱した点である。ここにおいて、彼はヘーゲルによる神の人間化を転倒させ、ヘーゲルの言う「自己の本質の外化」という考えに基づいて無神論的な主張を展開した。それは彼の著書『キリスト教の本質』において次のように述べられている。すなわち、神とは人間自身の本質が天上に投影されているものであり、人間は自己の本質を外化してつくり出した神に支配されている。つまり、フォイエルバッハは宗教を人間の本質に回収したのである。しかし、フォイエルバッハ弁証法を軽視し、それを引き継ぐことは無かった。

フォイエルバッハの問題点
マルクスフォイエルバッハの思想に対して、宗教や哲学の領域に限られており、政治や社会の現実を正確には捉えられておらず、観念論的なものに留まっていると批判した。マルクスは自身の著書である『フォイエルバッハに関するテーゼ』の最後で「哲学者達は、ただ世界を様々に解釈してきただけに過ぎない。しかし、重要なことは、世界を変えることである。」という有名な一節を述べた。

Ⅲ.ヘーゲルの労働観―主人と奴隷の弁証法

1.分業体制
人間は自然(=外界、つまり、社会や経済基盤)から独立して生きることはできない。そうであれば、自己の自由・自立はいかにして実現されるのか。その方法は次の2つである。すなわち、一つは対立する2人の人間の一方が生命の維持のみを営み、もう一方が自立・自由を享受するという分業体制であり、もう一つは自己が自然と実践的に関わる労働である。分業体制とは、主人と奴隷のあいだに見られる上下関係、すなわち支配と服従の関係である。それが上下の差別を前提とする以上我が我々であり、我々が我であるような承認の関係とは鋭く対立するのである。

2.主人の非自立性
主人と奴隷の関係において、主人は支配者の位置に居るゆえに、生命と自由・自立とを共に獲得できているかにみえる。しかし、実際は非自立的な存在である奴隷の奉仕によってかろうじて生命を維持できているのである。主人は奴隷という媒介を通すことによってのみ自立的な存在となっていることができているのである。つまり、実際のところ主人は、一方では自立し、かつ自由な意識存在である。しかし、同時に従属的な物的存在である奴隷という存在との関係によって主人は自らの自由と自立性を成り立たせている。その上、その自由と自立も奴隷を抑圧することによる不自由な関係である。

3.奴隷の自由と自立性
主人と奴隷の関係を更に子細に検討すると、主人は一方では、その意識において直接的・自立的存在である。しかし、他方ではこの奴隷という媒体を通してのみ自立的存在となっているのである。この奴隷との媒介関係によって主人は物に関係することができる。すなわち、主人は奴隷の労働を支配し、そのことを通して物を自由に享受するのである。したがって、真の生命と自立・自由とに至る可能性はむしろ一見生命の保証もなく、自由も自立も奪われているかに見える奴隷のほうにこそある。そして、その可能性に根拠を与えるのが労働である。主人との関係の中では従属するにある奴隷が、労働するものとして物に向き合う時には物を自由に扱い、物の内におのれの自由や自主性を投影できる。それは、主人のあずかり知らぬ奴隷だけにできる自由である。主人との関係の中では従属する位置にある奴隷が、労働するものとして物に向き合う時にはも物を自由に扱い、物の内に己の自由や自主性を投影できる。それは、主人のあずかり知らぬ奴隷だけにできる自由である。

4.奴隷を介した主人の物の享受
奴隷の方は、自己意識という観点では一定の否定力を物に対してもつ。しかし、その否定力は限定されている。したがって、彼はただ物に対して労働を加えることができるのみで、それを自己のものとすることができない。それは、主人が物への支配力をもっているからであり、主人の方は奴隷の労働を介して物と関係することによって、物に対する純粋な否定力、つまり直接の支配力をもつことができる。すなわち、主人は奴隷の労働によって物の自立性を支配し、それによって物を一方的に享受することができるのである。

5.一方的な承認関係
ここでは、一方の絶対的な自立性の承認が成立しているように見える。というのも、奴隷は一方では物への従属(しかし、加工するだけで自分のものとならない)をし、他方では主人への従属(生殺与奪の権を握られている)をするという両契機において、自分の非自立性を認めており、一方的に主人の絶対的な支配を承認しているからである。すなわち、ここではまず奴隷の方が自ら自己の自立性を否定するということ、さらに奴隷が相手の絶対的な自立性を認め、まさしくその意志に自分の行動を従属させるということが行なわれている。こうしてここでは、自己意識の完全な自立性が承認されるのに必要な二つの契機が欠くところなく成立しているようにみえる。だが、実はこの関係は本来の承認関係とは言えない。この承認は一方的な承認にほかならず、真の承認関係に必要な相互的な関係が成立していないからである。

6.自律的存在としての奴隷
絶対的支配を振るう主人とそれに支配される奴隷の関係においては、一見主人が絶対的な自由を享受しているかに思える。しかし、この関係では、主人の自己意識が本質的な自立性の意識を獲得することはできない。この主人と奴隷の関係が成立すると、むしろ主人は、自分の存在を非自立的な存在だと自覚することになるのだ。そして、自立的存在としての可能性を有するのはむしろ奴隷の側であることが明らかになるのである。

Ⅳ.商品と貨幣及び労働

商品と価値
商品とは、何らかの欲望を満足させる物・サービスである。資本主義社会において我々が生産消費する富はこの商品という形態をとる。これは、資本主義社会に固有の様々な現象を生み出す原因である。使用価値とは、ある欲望を満足させる性質である。交換価値とは、ある商品の使用価値を他の商品の使用価値と交換できる性質である。交換価値の大きさは、抽象的人間的労働の社会的必要労働時間の量によって決定される。抽象的人間的労働とは、労働の具体的形態を捨像した概念である。社会的必要労働時間とは、現存の社会的に標準的な生産条件と、労働の熟練及び密度の社会的平均度をもって、何らかの使用価値を生産するために必要な労働時間である。生産力とは、一定の社会的必要労働時間に対して、どれだけの量の使用価値が生み出されたかということを意味する概念である。生産力の上昇により、必要な社会的必要労働時間が減少するので、商品の交換価値が低下する。

商品と労働
商品の使用価値は有用労働によって産出される。有用労働とは、その生産物が使用価値である労働である。社会的分業は有用労働によって形成されている。社会的分業は、商品生産の存在条件である。複雑労働とは特殊な訓練によって高度に発達した労働力によって行われる労働である。単純労働とは、特殊な訓練を必要としない労働である。複雑労働は同じ労働時間でも単純労働の何倍化されたものとして価値に反映される。労働は使用価値を生む有用労働と交換価値を生む抽象的人間的労働という二つの面を有する。生産力が上昇すると抽象的人間的労働は減少するので、商品の交換価値は減少する。一方、有用労働の面では同じままなので、商品の使用価値は変化しない。

Ⅴ.剰余価値

新しい価値
剰余価値説とは、商品の交換価値は抽象的人間的労働によって規定されるが、労働力もまた特殊な商品であり、その価値は労働力の生産費(=労働者の生活費)によって規定されるという説である。ところが、労働力はその価値通りに賃金が支払われたとしても、その価値以上の新しい価値をその生産過程で生み出す。この新しい余分の価値が剰余価値である。これは労働者が生み出したものにも関わらず、利潤として資本家のものになるのである。

剰余価値の搾取
この剰余価値説は古典学派の労働価値説を批判的に発展させたものである。マルクスの代表的著書は『資本論』であるが、これによれば、生産手段を私有する資本家は、労働者の生み出した剰余価値を利潤として搾取し、それによって労働者はますます貧しくなるから、資本家と労働者の階級闘争は激しくなる。その一方で、利潤を追求してそれを蓄積する資本家の無際限な生産は、社会全体の消費力を超えて増大する。それゆえ、過剰生産による周期的な恐慌が起こるのである。

Ⅵ.疎外

資本主義社会では、資本家が生産手段を私有し、独占しているゆえに、生産手段をもたない労働者は生きるために資本家の下で労働をしなくてはならない。つまり、賃金労働者として自分の労働力を資本家に売り渡さなければならないのである。そのため、労働によって生み出されたものは、労働者のものではなく資本家の所有となる。ここに疎外、すなわち人間がつくり出したものが人間から離れたものとなり、逆に人間を支配する力として働くという現象が生じる。マルクスは資本主義では労働者は次の4つの疎外の形態に直面していると主張した。

1.生産物からの疎外
労働者の生産物は労働者とは疎遠になる。すなわち、労働者は自分自身の労働の成果からも疎外されるのである。

2.労働からの疎外
労働自身もまた、労働者のものではない。それゆえ、労働は労働者が資本家に自らの労働力を売り渡すことによってなされる。したがって、労働は労働者が自主的に行うものではなく、資本家から強制されるものとなる。要するに、労働もまた労働者と疎遠なものとなるのである。

3.類的存在からの疎外
労働はただ生存のためのみの手段になってしまう。それゆえ、他者とのかかわりの中で労働し、そこに喜びを見出すという人間の本性、すなわち類的存在であることが否定される。こうして、労働者は類的存在からも疎外されるのである。

4.人間からの疎外
人間が本来持っていた他者との結びつきが否定され、労働者は孤立する。労働者は人間からも疎外されるのだ。

労働者が直面しているこのような疎外の状況は「疎外された労働」と呼ばれる。このような人間の不幸を克服するためには、資本主義体制を支えている私有財産制を否定し、生産手段を社会全体で共有する共産主義体制に移行しなければならないと考えられたのである。

Ⅶ.物象化

人間関係の変質
物象化とは、資本主義制度において人間がその労働力を資本家に売り渡さなければならないゆえに、人間が一つの商品として物のように取り扱われること、それにより人間の社会的な関係も物と物との関係のように変質させれらてしまうことである。物象化の結果として、人間が生み出したもの(貨幣など)がそれ自体価値を持っているかの様に見做される物神崇拝が生まれる。

私的労働の克服
物象化が発生している社会では人々は直接労働の社会的性格を考慮して総労働を配分したり、生産物を分配することができない。よって、人間に変わって物象が力をもち物象の運動(=市場メカニズム)によって人間たちが制御される。私的生産者たちの行為の総体が生み出した物象の運動が個々の私的生産者の行為を制御している。このような物象的な形態を克服するにはそれを絶えず再生産している私的労働という在り方を克服する必要があるのだ。

Ⅷ.物神崇拝

商品の神秘性の在り処
商品の神秘的性格は商品の使用価値からは出てこない。商品の使用価値は五感で把握できるものである。商品の神秘的性格は交換価値既定の内容からも出てこない。商品の神秘的性格は抽象的人間的労働からも出てこない。抽象的人間的労働の質的な面はどんな労働でも一定の労力の支出である限り同じように疲労を与えることには変わりがない。抽象的人間的労働の量的な面は労働時間として現れる。これら質的量的な意義は個々の人間だけでなく社会にとっても意義を有する。これら3点にはいずれも神秘的な面は無い。

商品形態による商品の神秘化
商品の神秘的性格は商品形態そのものから生じる。労働生産物が商品形態をとる社会では抽象的人間的労働の社会的性格が労働生産物自身の価値として現象する。労働生産物が商品形態をとり、抽象的人間的労働の社会的性格が労働生産物の社会的属性になることが物神崇拝なのである。労働の社会的性格を生産物の交換力へ変更して表示し商品交換を行うから生産物が価値を有するのにも関わらず、生産物が生まれつき価値を持っているから商品として交換できると考えられてしまうのである。

価値の二重の役割
労働生産物が商品になるのはそれらは互いに独立に営まれる私的労働の生産物である場合に限られる。この私的労働とは、私的個人が勝手に行う労働でありながら社会的分業の一部を構成している労働のことである。私的個人を結びつけるのは、互いの生産物の使用価値に対する欲望である。私的生産者たちが私的労働を行い交換する場合には必ず生産物に値段をつけなければならない。この時生産者は商品に使用価値とは別の社会的な価値を認めている
これが抽象的人間的労働の対象化としての交換価値である。このとき、抽象的人間的労働の社会的性格を表示している。これにより、社会的総労働の分配を無意識に行っている。したがって、ここでは価値は総労働の配分と生産物の分配を規制するという2重の役割を果たしている。市場では価値を基準として価格が決められることにより、総労働の配分を行うことができる。資本主義社会においては人々の社会的関係は人格的関係としてではなく物象的関係として現れる。つまり、物象化が起こるのである。

Ⅸ.ヘーゲル弁証法

弁証法とは何か
ヘーゲル論理学の対象は存在のあらゆる段階を貫く最も普遍的な規定である。ヘーゲルはこれらの諸規定の研究を彼の生きた時代における諸科学の成果に基づいて行った。彼の時代の科学は新しい事実の確認において自然の諸連関をつかみ、諸科学相互の間を接近させ、固定した概念を壊し、対象の流動性を把握しようと努めたのである。

弁証法の三段階
ヘーゲル弁証法は、認識の三段階的発展である。この三段階的発展は様々な言い方がなされるが、ここではそれぞれ即自的段階・対自的段階・即時かつ対自的段階と呼ぼう。すべてのものは自分自身の内から自分と対立し矛盾するものを生み出し、それが他なるものになる。即時的段階はそれ自身の内に上記のような矛盾が含まれているにも関わらず、その矛盾に気づいていない段階である。次に、対自的段階はこの矛盾を自覚する段階であり、その矛盾によって生まれた他なるものが否定される。最後に、即時かつ対自的段階は、即自的段階と対自的段階の統一である。ここにおいて、即自的段階と対自的段階において見出だされた2つの規定は、即時かつ対自的段階において、一方ではそれぞれの不要なものが廃棄されると共に、もう一方ではそれぞれの特徴が生かされて新しい段階へと移る。つまり、両者が統合され、そこに高次の統一が生まれるのである。これがいわゆる「アウフヘーベン止揚)」である。アウフヘーベンという語はもともとは「否定する」という意味と「保存する」という意味を持つ二義的な言葉であった。このように、すべてのものは「即自的段階→対自的段階→即時かつ対自的段階」という運動を繰り返して発展していく、この運動の法則・論理が弁証法なのである。

花が咲けば蕾が消えたから、蕾は花によって否定されたということもできよう。同様に、果実により、花は植物の在り方としては、未だ偽であったことが宣告され、植物の真理としての花に替わって果実が現れる、植物のこれらの諸形態は、それぞれ異なっているばかりでなく、互いに両立しないものとして排斥しあっている。しかし同時に、その流動的な本性によって、諸形態は有機的統一の諸契機となっており、この統一においては、それらは互いに争わないばかりでなく、どの一つもっと同じく必然的である。そして、同じく必然的であるというこのことが、全体としての生命を成り立たせているのである。
                        ――ヘーゲル精神現象学

Ⅹ.唯物論弁証法

ヘーゲル弁証法の批判的継承
ヘーゲルにおいて弁証法は、意識(=思考)の自然発生的な発展の法則であった。しかし、ヘーゲルは意識は独立して発展するものであると考えたために、弁証法は観念論的なものであった。マルクスはこの弁証法唯物論な自然観に取り入れた。そのために、ヘーゲル弁証法が「観念論的弁証法」と呼ばれるのに対して、マルクス弁証法は「唯物論弁証法」と呼ばれるのである。したがって、マルクス唯物論弁証法は自然の一般的な運動法則を研究して、その成果を踏まえた上で未知のものへ探究をすることである。

思考の模写説
人間の思考の一般的な運動法則は、自然の一般的な運動法則の「模写(反映)」である。つまり、主観的弁証法はすべての自然に行われている客観的弁証法の模写である。しかし、模写は人間の実践を土台にして行われているのであり、それは常に歴史的に制約されているものである。したがって、主観的弁証法は、相対的・有限的な模写に過ぎず、これが主観的弁証法の本質である。そのために、客観的弁証法は、自然の事物が知覚される範囲でしか捉えられないのと同様、模写たる主観的弁証法としてしか捉えることが出来ない。したがって、一定の歴史的条件を考慮に入れれば、主観的弁証法は客観的弁証法そのものであるとも言うことが出来るだろう。

唯物論弁証法の諸法則

1.質と量の相互転化
唯物論弁証法の第一の段階では、量的変化が質的変化をもたらし、質的変化は量的変化を促進する。

質とは、事物の様態を規定すること、すなわち定義である。したがって、質とは「有る」であり、かつ「有る」に繋がる述語一般である。すなわち、質とは、「どのよう+である」かということなのだ。この質によって事物は他の事物と区別される。したがって、質が変化すれば、その質を有する事物(=主語)もまた変化する。このように、質とは事物の限界・有限性を示すと共に変化をも示す。質は事物を定義することによって、その肯定的な性質を示すと同時に、事物の否定的な側面(=可変性)をも示しているのだ。

事物は自身が有する質によって他の事物に変化する。つまり、量とは「どれだけであるか」という意味である。また、第一に量とは大きさである。ゆえに、増大・減少という変化、すなわち質を行う。つまり量は質の一種なのだ。この量は数字によって表現することが出来る。量は質の一種であるが故に変化するものである。ただし、それは連続性においてのみ変化するものだる。このことは、連続的な変化よって捉えられる質と、非連続的によって捉えられる変化とは対照的であり、これが量の特徴となるものである。

質においては偶然的・無連関な変化が起きるのみであったが、それに対して量においては必然的・連関的変化が起きる。この意味で、事物についての規定性としては、量は質よりも客観的なものである。したがって、量は質の一種ではあるが、同時に質の否定である。つまり、量とは質における偶然的な限界を取り払い、また偶然的に変化するものを恒常化する。それゆえ、量よって初めて単なる質において多様に区別されていた諸事物に共通性が現れるのである。量の変化におけるある一定の時点において質の変化が起こるということは、一面から見ると質の変化は偶然的・飛躍的に行われるように見える。けれども、実際はは量の変化という連続的・必然的な変化がその背後において起こっているのである。

このように、量の変化と質の変化は、相互に連関し、また結合している。このように、量と質が結びついたものを一体として捉えたとき、それは「度量」と呼ばれる。事物が変化するのは、事物がある特定の質を有するゆえである。つまり、ある質が他の質に変化するのは、ある質がそれ特有の質だからである。したがって、事物が質を有するということは、同時にその事物が変化するものであるということを意味するのである。ある質における量の増大・減少が進行し、その量的変化の進行がある点に達すると、その質が突然他の質へと転化する。要するに、ある質が他の質に転化するのは、ある質内における量の変化が原因なのである。この現象は「量的変化が質的変化をもたらす」と呼ばれる。

さらに、他の質が新しく発生することによって、そこにおいてもまた新しく量的変化が始まる。これは、それ以前の質内におこった量的変化とは異なる様相を呈している。要するに、質が新しく変化したことが原因となって、異なる様相の量的変化が促進されるのである。これの現象は「質的変化が量的変化をもたらす」と呼ばれる。

2.対立した事物の相互関係
自然においては、互いに対立・闘争しつつも互いに影響・依存し合い立場が可換的であるという諸傾向・諸法則が存在する。

質と量の相互転化においてある事物の他の事物への変化は、質と量の問題に単純化されていた。しかし、この変化という現象を本質的に分析すると、それは矛盾を要因としていることが分かる。矛盾とは、ある主語(=事物)に対して、ある述語とその述語の否定とが同時に繋辞されることである。要するに、事物は矛盾を自身の内部に含むゆえに他の事物に変化するのである。

ところが、あの事物が変化しつつある過程においては、一方の側面と他方の側面とにそれぞれ反対の性質の諸要素があって、その相反する双方の要素が、相互に闘争・相互に影響している。そして、これらの相反する諸要素が一つの全体を成しているのである。

3.否定の否定
事物の発展は、最初の状態が否定され他の状態に変わると共に、その状態がさらに否定されて、以前の状態に帰還するように見える。事物の変化はこれまで述べてきたような、低い段階から高い段階への発展である、そのとき、ある事物からその反対のものへ転化し、さらにそれらの二つの事物の性質を合一させながら、見かけは最初の地点へと戻ってきたような形になるが、実際には事物はより高い段階へと登り、発展を遂げているのである。

Ⅺ.史的唯物論

物質重視の思想
唯物論とは、自然に対する特定の哲学的・認識論的・形而上学的な見解である。この理論は、世界が神の被造物であるとか、精神的なものが根源的であるなどと主張する観念論や唯心論などの見解に対して、 あらゆるものの根底には物質的なものがあると考え、精神的なものはその現象ないしは仮象であると主張する。要するに、物質的なものの根源性を主張する思想である。

科学の起源
これはすべての科学に共通かつ根本的な態度である。というのは、ここでは対象が対象の内にあるものによって説明され、対象が人為的に作られた要因によって説明されることなく、したがって科学の進路を妨げる要因は理論構成に無いからである。そして、この唯物論的哲学が科学の起源なのである。

マルクスは、資本主義体制から生産手段を社会全体で共有する共産主義体制に移行しなければならないことを正当化するために唯物史観史的唯物論)と呼ばれるものを提唱した。

唯物史観
唯物史観とは、古来からの唯物論的態度を、社会の諸現象の成立・連関・発展に対する見方にまで推し進めものである。つまり、唯物史観の根本的な見方は、人間社会にも自然と同様に客観的な法則が存在していて、ゆえに社会史を自然史として見るということであ。つまり、自然史の発展の延長線上に人間の社会を見るというものである。これは、生産力と生産関係の矛盾が社会発展の原動力であるとする考え方が前提となっている。しかし、そのためには自然を弁証法的・発展的に捉えることが必要である。それゆえ、弁証法唯物論が確立されてはじめて、唯物史観も可能になったのである。

唯物史観の定式
唯物史観を定式化はマルクスの著書『経済学批判』の序言においてなされた。少々長いがすべて引用させてもらう。その内容は以下の通りである。

人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。
社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。
このような諸変革を考察するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とを常に区別しなければならない。ある個人を判断するのに、かれが自分自身をどう考えているのかということにはたよれないのと同様、このような変革の時期を、その時代の意識から判断することはできないのであって、むしろ、この意識を、物質的生活の諸矛盾、社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならないのである。
一つの社会構成は、すべての生産諸力がその中ではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる問題だけである、というのは、もしさらに、くわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するものだ、ということがつねにわかるであろうから。
大ざっぱにいって経済的社会構成が進歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア生活様式をあげることができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形態の最後のものである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対関係の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。だからこの社会構成をもって、人間社会の前史はおわりをつげるのである。
                        ――マルクス『経済学批判』

 

 

類的存在
人間とは、集団的・群居的な生活を営む動物である。したがって、人間は本質的には相互の生産共同体において結びついた他の人間と共に共同生活を営む「類的存在」である。この人間が労働をするようになると、共同体は社会に変容する。したがって、社会とは道具を仲介として結ばれる人間関係のことである。それゆえ、人間は孤立して労働をするのではない。他の人間と関りを持ち、社会的関係の中で労働するのである。要するに、人間の労働は常に社会的労働なのでである。

労働
マルクスは人間の本質を労働の中に見た。すなわち、人間が他の動物と区別されるのは人間が労働をするからなのである。マルクスによれば、労働とは道具を用いて生産することである。したがって、真の労働は道具の製造と共に始まるのである。また、労働は人間が自分の欲求や能力を実現・発展させる活動でもある。それゆえ、労働はただ単に生活の手段を得て生命を維持していくだけの活動ではない。人間はそれを通して自分の様々な可能性を実現していく、そしてそこに喜びや生きがいを感じることが必要なのである。

労働の仕方の変化は人間の在り方を変える。労働の仕方の変化の根源は常に道具の変化である。そして、この道具の変化は人間同士の繋がりの様式、すなわち社会の在り方を変える。ただし、このときには人間が道具を用いてその労働力を発現することが必要不可欠である。そのようにして初めてある事物が道具に変化することが出来るのである。

ところが、労働とは本質的には何ものかを生産をする活動である。それゆえ、道具において発現される労働力とは生産力をさすのである。マルクスは人間社会の根源には常に生産力があると考え、その生産力を変化させることによって社会もまた変化させることができると考えたのである。

生産
人間は労働における道具を媒体として社会を形成している。すなわち、社会を構成する人間は生産活動において結ばれるのである。この形態は生産関係と呼ばれる。この生産関係は、道具の発達によって変化する点では労働組織を意味する。しかし、生産関係は道具を所有しているか否かによって決定される。その意味では、生産関係と所有関係とは同義である。

社会を動かすのは人間の生産活動であり、生産活動は生産力と生産関係によって説明される。生産力とは、機械などの生産手段を用いて生産物(財やサービスなど)を生みだす力のことである。資本主義社会においては、生産手段は基本的に労働者の所有物ではない。この生産手段を所有する者は資本家と呼ばれる。このとき、労働者と資本家の間に発生する関係が生産関係なのである。また、資本主義社会以外においては、共同狩猟と食料の採集、封建領主と農奴の関係などが挙げられる。このような生産力と生産関係の総体は、生産様式と呼ばれる。マルクスは歴史的な生産様式として、アジア的、古代的、封建的、近代資本主義的な生産様式などを挙げている。生産様式以外の文化や制度などは社会形態と呼ばれる。この両者を歴史的発展に沿って考察すると、「社会形態は、生産様式によって規定されてきた」と言える。

生産様式は、「効率化」「生産効率の増大」の法則に従って進化する。生産様式の効率化は生産関係の改善によって達成される。現時点における生産関係は労働者と資本家の関係、すなわち人と人との関係であるが、それは効率的な生産を実現するための関係にはなっていない。それゆえ、それはさらに進化していくのである。この進化を誘導するのは、思想ではなくあくまで「生産」である。

前述したように、我々の社会を支えているのは生産と生産力である。これを分析すると、さらに労働と労働手段に分かれる。したがって、生産手段があってもそこに労働が存在しなければ、生産は成立しないのである。この生産力と生産関係との関係、あるいは人間が結んでいるいろいろの仕方の生産関係はまとめて社会の土台と呼ばれる。この土台の特徴は人間の営みがたいてい物質的な生産に関わっているというところである。ここに物質的とは、労働において人間が物質を生産するということだけでなく、生産の仕方、生産過程そのものが道具を利用するということである。

国家と階級
生産関係が所有関係を意味するならば、所有権を維持するための法律が要請される。法律は物質的な生産過程を離れた社会全体の意志に関わる問題である。したがって、所有権を維持するためには、社会全体による所有権の承認と、所有権を犯す者を処罰する法律が要請される。そのためには、社会には特別な組織が要請された。それが国家という所有権の為の権力機構である。

上述したように国家の第一の目的は私有財産の擁護であった。また、社会は生産を基礎としている。このとき、所有関係において人間は道具(=生産手段)の所有者と非所有者とに分かれる。彼らはそれぞれ生産に対して違った役割を果たす。この所有者と非所有者によって区別された人間の集団を階級というのである。

上述したように、階級という人間集団は生産を基礎としている。そして、所有者の階級が非所有者の階級に対抗して自分達の私有財産を守るために国家というものは作られたのである。したがって、国家とはつまり外見では社会全体の意志の表現という形を取っているが、実質的には他の階級に対する階級的支配の道具なのである。そして、被支配階級(=非所有の階級)も様々な手段を用いて、特に政党を設立することによって支配階級(=所有者の階級)との階級闘争を行うのである。

上部構造と下部構造
マルクスは社会・政治・経済を分析し、そこに二つの構造を見出した。それは、「上部構造」と「下部構造」である。

生産手段に所有に関して結ばれる階級的な諸関係は、生産様式については社会の「下部構造」と呼ばれる。それに対して、社会形態については「上部構造」と呼ばれる。この上部構造の上で人間の精神的な活動が営まれ、法律や政治制度、思想、宗教、芸術などが形成される。

下部構造によって上部構造(文化などの社会の諸相)は規定される。つまり、下部構造によって法や制度や文化などが影響を受け、また変様していくのである。ここで重要なのは、生産(=労働と生産手段の関係)や、生産関係(=労働者と資本家の関係)を変容させることによって、上部構造が変容するということである。つまり、物質的・経済的な生産活動が精神的な営みを規定しているのである。マルクスは下部構造の段階的な変化に応じて上部構造が変化すると説明する。したがって、ここでは上部構造の特徴もまた段階的に変化する。しかし、上部構造の変化は土台に反作用するという仕方でも行われるのである。これが「上部構造の能動性」と呼ばれるものである。

したがって、上部構造は能動性に限っては独自の発展法則を有しているが、重要な特徴においては、下部構造の変化に対応している。このように、上部構造が下部構造の変化に対応して自らも変化する。しかし、生産関係の形態がもはや生産力の発展を助けず、その足かせとなるとき、上部構造の全構造を変革する時が来る。ここにおいて、権力たる国家の性格やその権力を握る階級は変容する。こうした上部構造の全体的な変化は革命と呼ばれる。

人間社会の歴史
マルクスは社会の土台から上部構造まで統一的に把握する点でまず歴史主義的である。また、人間が動物の時代から今日まで発達してきた経路を明確にする。歴史的時代は下部構造、特に生産手段の所有様式に特徴づけられる。

1.原始共産制
私有制が普及する以前の人類の社会体制であり、共産制の1形態である。すべての人間が産出者であり、産出物は共同体内の共有のものである。ここでの産出物は即座に消費されるゆえに、余剰は産出されない。また、私有財産も国家もほとんど存在しなかったと考えられる。要するに、土地も道具も生産者達の共有であって、すべての人間が経済的に平等であり、また階級も無い社会制度である。

2.奴隷制
人格を認められず、所有の対象として隷属し、どのような生産手段をも所有せず、使役するために売買されている生産者、すなわち奴隷階級(=非所有者)と、その奴隷を使役することによって労働から解放され、自立と自由を享受する自由民(=所有者)の階級とが存在する社会制度である。

3.封建制
古代ギリシア古代ローマ社会に典型的な古代の奴隷制が生産力の進歩によって覆された結果、領主(=所有者)が農奴(=非所有者)を支配するようになった社会制度である。ここにおいて、農奴(=非所有者)は一部の農具を所有するだけで、土地は所有していない。

4.資本制
労働力は商品化され,剰余労働を剰余価値とすることによって資本の自己増殖を目指し,資本蓄積を目指すという社会制度である。生産手段を有する資本家階級による私的所有と利益追求のための市場競争を基本とし、彼らによって商業や産業が制御されている。その一方で、生産する労働者階級は労働力だけを所有し、生産手段は所有しない。

5.社会主義
労働者が公的権力を掌握することによって、資本家が私有する社会的生産手段を公有ならびに国有の財産に転化する。これにより、労働者は生産手段を資本としてのこれまでの性質から解放する。この時点からは、計画的な生産が可能になる。また、同時に無階級へ向かう社会制度である。

社会革命
社会は次のように変化する。すなわち、まず下部構造において、生産力に見合った生産関係が形成される。生産力は絶えず発展していくが、生産関係の側はそれに同調しない。むしろ、支配階級が現状を維持しようとするので、固定した形態が維持される。つまり、生産関係は生産力を発展させるためのものではなく、その妨げとなるのである。そのため、生産力と生産関係の間には矛盾が生じる。このような状態になると、やがて古い生産関係は壊され、発展した生産力に見合った新しい生産関係が作られる。下部構造の変動によって、巨大な上部構造の全体が徐々に、あるいは急速に覆るのである。これが社会革命である。

社会革命はこれまで生産手段を所有し、社会を中心的に動かしてきた支配的階級が、発展した生産力を担う新たな階級にとって代わられることでもある。その意味で「歴史は常に階級闘争の歴史であった」とマルクスは『共産党宣言』で述べている。それは、近代資本主義社会においては資本家階級と労働者階級という敵対する二大階級の間で行われると考えられたのである。

共産主義
階級のない完全に自由で平等な社会の実現には、労働者階級が資本家階級との階級闘争に勝利することが必要である。この勝利によってまず社会主義が実現される。ここでは労働者階級が政治的支配権を有し、生産手段は国家に集中される。そして、過渡的な段階の社会主義は個々人が全面的に発展し生産力が成長した後に、より高い段階である共産主義に移行する。そこでは、一人ひとりの自由が同時にすべての人の自由であるような共同生産性社会が実現され、「各人がその能力に応じてはたらき、その必要に応じて受け取る」ことが出来るようになるのである。