マルクス思想の要点

Ⅰ.初期の社会主義思想

社会主義の先駆者となったのは、フランスのサン・シモンやチャールズ・フーリエ、イギリスのロバート・オーウェンらの思想家たちである。

サン・シモン
シモンはフランスの貴族階級の生まれであった。しかし、ルソーの影響を受けた彼は1775年4月19日から1783年9月3日までに起こったアメリカ独立戦争に参加した。シモンは社会のすべての成員が働く社会制度が作られなければならないと考え、また科学と産業の緊密な連携によって実現される計画的組織の必要性を主張した。また、産業者(資本家や科学者、労働者など)が自主的かつ合理的に生産に携わり、搾取(他人の労働の成果を無償で取得すること)のない理想的社会を構想した。

チャールズ・フーリエ
フーリエは、過剰生産によって引き起こされる恐慌を生み出す資本主義制度の無秩序性を批判し、収入の分配が資本・労働・才能という三つの基本原理によって規定されている独自の理想的な農業共同体である「ファランステール」を構想した。

ロバート・オーウェン
オーウェンは、産業革命が富の蓄積もたらしたにも関わらず人民の貧困が増大している社会の矛盾を指摘した。しかし、彼は機械の出現とその普及の歴史的意義を正当に評価してもいた。それゆえ、彼は自分の経営する工場の労働者を人間的に扱う経営をしていたのである。彼は私有と宗教とブルジョア的家族を根絶させ、愛と協働による独自のコロニーを組織することを提案し、その実現のためにアメリカで人道主義的な共産村(ニュー・ハーモニー村)を作ろうと試みた。その後に、彼は労働組合や協働組合運動を指導して、労働者の権利向上に力を尽くした。

初期の社会主義思想の問題点
彼らは、資本主義の有する矛盾を鋭く指摘し、人道主義的な立場から、搾取のない平等かつ労働者中心の理想社会を構想した。しかし、現実社会の科学的分析を欠いており、理想社会の実現の為の具体的な手段を持たなかった。それゆえ、マルクスらは彼らを「空想的社会主義者」であると批判した。

Ⅱ.フォイエルバッハの哲学

フォイエルバッハ唯物論
フォイエルバッハは認識能力における感性を重視し、感性によって捉えられる世界を実在であると見做した。それによって、ヘーゲルの観念論を転倒させ、そこから唯物論的な要素を引き出したのである。

フォイエルバッハ無神論
もう一つは、フォイエルバッハ人間学を提唱した点である。ここにおいて、彼はヘーゲルによる神の人間化を転倒させ、ヘーゲルの言う「自己の本質の外化」という考えに基づいて無神論的な主張を展開した。それは彼の著書『キリスト教の本質』において次のように述べられている。すなわち、神とは人間自身の本質が天上に投影されているものであり、人間は自己の本質を外化してつくり出した神に支配されている。つまり、フォイエルバッハは宗教を人間の本質に回収したのである。しかし、フォイエルバッハ弁証法を軽視し、それを引き継ぐことは無かった。

フォイエルバッハの問題点
マルクスフォイエルバッハの思想に対して、宗教や哲学の領域に限られており、政治や社会の現実を正確には捉えられておらず、観念論的なものに留まっていると批判した。マルクスは自身の著書である『フォイエルバッハに関するテーゼ』の最後で「哲学者達は、ただ世界を様々に解釈してきただけに過ぎない。しかし、重要なことは、世界を変えることである。」という有名な一節を述べた。

Ⅲ.ヘーゲルの労働観―主人と奴隷の弁証法

1.分業体制
人間は自然(=外界、つまり、社会や経済基盤)から独立して生きることはできない。そうであれば、自己の自由・自立はいかにして実現されるのか。その方法は次の2つである。すなわち、一つは対立する2人の人間の一方が生命の維持のみを営み、もう一方が自立・自由を享受するという分業体制であり、もう一つは自己が自然と実践的に関わる労働である。分業体制とは、主人と奴隷のあいだに見られる上下関係、すなわち支配と服従の関係である。それが上下の差別を前提とする以上我が我々であり、我々が我であるような承認の関係とは鋭く対立するのである。

2.主人の非自立性
主人と奴隷の関係において、主人は支配者の位置に居るゆえに、生命と自由・自立とを共に獲得できているかにみえる。しかし、実際は非自立的な存在である奴隷の奉仕によってかろうじて生命を維持できているのである。主人は奴隷という媒介を通すことによってのみ自立的な存在となっていることができているのである。つまり、実際のところ主人は、一方では自立し、かつ自由な意識存在である。しかし、同時に従属的な物的存在である奴隷という存在との関係によって主人は自らの自由と自立性を成り立たせている。その上、その自由と自立も奴隷を抑圧することによる不自由な関係である。

3.奴隷の自由と自立性
主人と奴隷の関係を更に子細に検討すると、主人は一方では、その意識において直接的・自立的存在である。しかし、他方ではこの奴隷という媒体を通してのみ自立的存在となっているのである。この奴隷との媒介関係によって主人は物に関係することができる。すなわち、主人は奴隷の労働を支配し、そのことを通して物を自由に享受するのである。したがって、真の生命と自立・自由とに至る可能性はむしろ一見生命の保証もなく、自由も自立も奪われているかに見える奴隷のほうにこそある。そして、その可能性に根拠を与えるのが労働である。主人との関係の中では従属するにある奴隷が、労働するものとして物に向き合う時には物を自由に扱い、物の内におのれの自由や自主性を投影できる。それは、主人のあずかり知らぬ奴隷だけにできる自由である。主人との関係の中では従属する位置にある奴隷が、労働するものとして物に向き合う時にはも物を自由に扱い、物の内に己の自由や自主性を投影できる。それは、主人のあずかり知らぬ奴隷だけにできる自由である。

4.奴隷を介した主人の物の享受
奴隷の方は、自己意識という観点では一定の否定力を物に対してもつ。しかし、その否定力は限定されている。したがって、彼はただ物に対して労働を加えることができるのみで、それを自己のものとすることができない。それは、主人が物への支配力をもっているからであり、主人の方は奴隷の労働を介して物と関係することによって、物に対する純粋な否定力、つまり直接の支配力をもつことができる。すなわち、主人は奴隷の労働によって物の自立性を支配し、それによって物を一方的に享受することができるのである。

5.一方的な承認関係
ここでは、一方の絶対的な自立性の承認が成立しているように見える。というのも、奴隷は一方では物への従属(しかし、加工するだけで自分のものとならない)をし、他方では主人への従属(生殺与奪の権を握られている)をするという両契機において、自分の非自立性を認めており、一方的に主人の絶対的な支配を承認しているからである。すなわち、ここではまず奴隷の方が自ら自己の自立性を否定するということ、さらに奴隷が相手の絶対的な自立性を認め、まさしくその意志に自分の行動を従属させるということが行なわれている。こうしてここでは、自己意識の完全な自立性が承認されるのに必要な二つの契機が欠くところなく成立しているようにみえる。だが、実はこの関係は本来の承認関係とは言えない。この承認は一方的な承認にほかならず、真の承認関係に必要な相互的な関係が成立していないからである。

6.自律的存在としての奴隷
絶対的支配を振るう主人とそれに支配される奴隷の関係においては、一見主人が絶対的な自由を享受しているかに思える。しかし、この関係では、主人の自己意識が本質的な自立性の意識を獲得することはできない。この主人と奴隷の関係が成立すると、むしろ主人は、自分の存在を非自立的な存在だと自覚することになるのだ。そして、自立的存在としての可能性を有するのはむしろ奴隷の側であることが明らかになるのである。

Ⅳ.商品と貨幣及び労働

商品と価値
商品とは、何らかの欲望を満足させる物・サービスである。資本主義社会において我々が生産消費する富はこの商品という形態をとる。これは、資本主義社会に固有の様々な現象を生み出す原因である。使用価値とは、ある欲望を満足させる性質である。交換価値とは、ある商品の使用価値を他の商品の使用価値と交換できる性質である。交換価値の大きさは、抽象的人間的労働の社会的必要労働時間の量によって決定される。抽象的人間的労働とは、労働の具体的形態を捨像した概念である。社会的必要労働時間とは、現存の社会的に標準的な生産条件と、労働の熟練及び密度の社会的平均度をもって、何らかの使用価値を生産するために必要な労働時間である。生産力とは、一定の社会的必要労働時間に対して、どれだけの量の使用価値が生み出されたかということを意味する概念である。生産力の上昇により、必要な社会的必要労働時間が減少するので、商品の交換価値が低下する。

商品と労働
商品の使用価値は有用労働によって産出される。有用労働とは、その生産物が使用価値である労働である。社会的分業は有用労働によって形成されている。社会的分業は、商品生産の存在条件である。複雑労働とは特殊な訓練によって高度に発達した労働力によって行われる労働である。単純労働とは、特殊な訓練を必要としない労働である。複雑労働は同じ労働時間でも単純労働の何倍化されたものとして価値に反映される。労働は使用価値を生む有用労働と交換価値を生む抽象的人間的労働という二つの面を有する。生産力が上昇すると抽象的人間的労働は減少するので、商品の交換価値は減少する。一方、有用労働の面では同じままなので、商品の使用価値は変化しない。

Ⅴ.剰余価値

新しい価値
剰余価値説とは、商品の交換価値は抽象的人間的労働によって規定されるが、労働力もまた特殊な商品であり、その価値は労働力の生産費(=労働者の生活費)によって規定されるという説である。ところが、労働力はその価値通りに賃金が支払われたとしても、その価値以上の新しい価値をその生産過程で生み出す。この新しい余分の価値が剰余価値である。これは労働者が生み出したものにも関わらず、利潤として資本家のものになるのである。

剰余価値の搾取
この剰余価値説は古典学派の労働価値説を批判的に発展させたものである。マルクスの代表的著書は『資本論』であるが、これによれば、生産手段を私有する資本家は、労働者の生み出した剰余価値を利潤として搾取し、それによって労働者はますます貧しくなるから、資本家と労働者の階級闘争は激しくなる。その一方で、利潤を追求してそれを蓄積する資本家の無際限な生産は、社会全体の消費力を超えて増大する。それゆえ、過剰生産による周期的な恐慌が起こるのである。

Ⅵ.疎外

資本主義社会では、資本家が生産手段を私有し、独占しているゆえに、生産手段をもたない労働者は生きるために資本家の下で労働をしなくてはならない。つまり、賃金労働者として自分の労働力を資本家に売り渡さなければならないのである。そのため、労働によって生み出されたものは、労働者のものではなく資本家の所有となる。ここに疎外、すなわち人間がつくり出したものが人間から離れたものとなり、逆に人間を支配する力として働くという現象が生じる。マルクスは資本主義では労働者は次の4つの疎外の形態に直面していると主張した。

1.生産物からの疎外
労働者の生産物は労働者とは疎遠になる。すなわち、労働者は自分自身の労働の成果からも疎外されるのである。

2.労働からの疎外
労働自身もまた、労働者のものではない。それゆえ、労働は労働者が資本家に自らの労働力を売り渡すことによってなされる。したがって、労働は労働者が自主的に行うものではなく、資本家から強制されるものとなる。要するに、労働もまた労働者と疎遠なものとなるのである。

3.類的存在からの疎外
労働はただ生存のためのみの手段になってしまう。それゆえ、他者とのかかわりの中で労働し、そこに喜びを見出すという人間の本性、すなわち類的存在であることが否定される。こうして、労働者は類的存在からも疎外されるのである。

4.人間からの疎外
人間が本来持っていた他者との結びつきが否定され、労働者は孤立する。労働者は人間からも疎外されるのだ。

労働者が直面しているこのような疎外の状況は「疎外された労働」と呼ばれる。このような人間の不幸を克服するためには、資本主義体制を支えている私有財産制を否定し、生産手段を社会全体で共有する共産主義体制に移行しなければならないと考えられたのである。

Ⅶ.物象化

人間関係の変質
物象化とは、資本主義制度において人間がその労働力を資本家に売り渡さなければならないゆえに、人間が一つの商品として物のように取り扱われること、それにより人間の社会的な関係も物と物との関係のように変質させれらてしまうことである。物象化の結果として、人間が生み出したもの(貨幣など)がそれ自体価値を持っているかの様に見做される物神崇拝が生まれる。

私的労働の克服
物象化が発生している社会では人々は直接労働の社会的性格を考慮して総労働を配分したり、生産物を分配することができない。よって、人間に変わって物象が力をもち物象の運動(=市場メカニズム)によって人間たちが制御される。私的生産者たちの行為の総体が生み出した物象の運動が個々の私的生産者の行為を制御している。このような物象的な形態を克服するにはそれを絶えず再生産している私的労働という在り方を克服する必要があるのだ。

Ⅷ.物神崇拝

商品の神秘性の在り処
商品の神秘的性格は商品の使用価値からは出てこない。商品の使用価値は五感で把握できるものである。商品の神秘的性格は交換価値既定の内容からも出てこない。商品の神秘的性格は抽象的人間的労働からも出てこない。抽象的人間的労働の質的な面はどんな労働でも一定の労力の支出である限り同じように疲労を与えることには変わりがない。抽象的人間的労働の量的な面は労働時間として現れる。これら質的量的な意義は個々の人間だけでなく社会にとっても意義を有する。これら3点にはいずれも神秘的な面は無い。

商品形態による商品の神秘化
商品の神秘的性格は商品形態そのものから生じる。労働生産物が商品形態をとる社会では抽象的人間的労働の社会的性格が労働生産物自身の価値として現象する。労働生産物が商品形態をとり、抽象的人間的労働の社会的性格が労働生産物の社会的属性になることが物神崇拝なのである。労働の社会的性格を生産物の交換力へ変更して表示し商品交換を行うから生産物が価値を有するのにも関わらず、生産物が生まれつき価値を持っているから商品として交換できると考えられてしまうのである。

価値の二重の役割
労働生産物が商品になるのはそれらは互いに独立に営まれる私的労働の生産物である場合に限られる。この私的労働とは、私的個人が勝手に行う労働でありながら社会的分業の一部を構成している労働のことである。私的個人を結びつけるのは、互いの生産物の使用価値に対する欲望である。私的生産者たちが私的労働を行い交換する場合には必ず生産物に値段をつけなければならない。この時生産者は商品に使用価値とは別の社会的な価値を認めている
これが抽象的人間的労働の対象化としての交換価値である。このとき、抽象的人間的労働の社会的性格を表示している。これにより、社会的総労働の分配を無意識に行っている。したがって、ここでは価値は総労働の配分と生産物の分配を規制するという2重の役割を果たしている。市場では価値を基準として価格が決められることにより、総労働の配分を行うことができる。資本主義社会においては人々の社会的関係は人格的関係としてではなく物象的関係として現れる。つまり、物象化が起こるのである。

Ⅸ.ヘーゲル弁証法

弁証法とは何か
ヘーゲル論理学の対象は存在のあらゆる段階を貫く最も普遍的な規定である。ヘーゲルはこれらの諸規定の研究を彼の生きた時代における諸科学の成果に基づいて行った。彼の時代の科学は新しい事実の確認において自然の諸連関をつかみ、諸科学相互の間を接近させ、固定した概念を壊し、対象の流動性を把握しようと努めたのである。

弁証法の三段階
ヘーゲル弁証法は、認識の三段階的発展である。この三段階的発展は様々な言い方がなされるが、ここではそれぞれ即自的段階・対自的段階・即時かつ対自的段階と呼ぼう。すべてのものは自分自身の内から自分と対立し矛盾するものを生み出し、それが他なるものになる。即時的段階はそれ自身の内に上記のような矛盾が含まれているにも関わらず、その矛盾に気づいていない段階である。次に、対自的段階はこの矛盾を自覚する段階であり、その矛盾によって生まれた他なるものが否定される。最後に、即時かつ対自的段階は、即自的段階と対自的段階の統一である。ここにおいて、即自的段階と対自的段階において見出だされた2つの規定は、即時かつ対自的段階において、一方ではそれぞれの不要なものが廃棄されると共に、もう一方ではそれぞれの特徴が生かされて新しい段階へと移る。つまり、両者が統合され、そこに高次の統一が生まれるのである。これがいわゆる「アウフヘーベン止揚)」である。アウフヘーベンという語はもともとは「否定する」という意味と「保存する」という意味を持つ二義的な言葉であった。このように、すべてのものは「即自的段階→対自的段階→即時かつ対自的段階」という運動を繰り返して発展していく、この運動の法則・論理が弁証法なのである。

花が咲けば蕾が消えたから、蕾は花によって否定されたということもできよう。同様に、果実により、花は植物の在り方としては、未だ偽であったことが宣告され、植物の真理としての花に替わって果実が現れる、植物のこれらの諸形態は、それぞれ異なっているばかりでなく、互いに両立しないものとして排斥しあっている。しかし同時に、その流動的な本性によって、諸形態は有機的統一の諸契機となっており、この統一においては、それらは互いに争わないばかりでなく、どの一つもっと同じく必然的である。そして、同じく必然的であるというこのことが、全体としての生命を成り立たせているのである。
                        ――ヘーゲル精神現象学

Ⅹ.唯物論弁証法

ヘーゲル弁証法の批判的継承
ヘーゲルにおいて弁証法は、意識(=思考)の自然発生的な発展の法則であった。しかし、ヘーゲルは意識は独立して発展するものであると考えたために、弁証法は観念論的なものであった。マルクスはこの弁証法唯物論な自然観に取り入れた。そのために、ヘーゲル弁証法が「観念論的弁証法」と呼ばれるのに対して、マルクス弁証法は「唯物論弁証法」と呼ばれるのである。したがって、マルクス唯物論弁証法は自然の一般的な運動法則を研究して、その成果を踏まえた上で未知のものへ探究をすることである。

思考の模写説
人間の思考の一般的な運動法則は、自然の一般的な運動法則の「模写(反映)」である。つまり、主観的弁証法はすべての自然に行われている客観的弁証法の模写である。しかし、模写は人間の実践を土台にして行われているのであり、それは常に歴史的に制約されているものである。したがって、主観的弁証法は、相対的・有限的な模写に過ぎず、これが主観的弁証法の本質である。そのために、客観的弁証法は、自然の事物が知覚される範囲でしか捉えられないのと同様、模写たる主観的弁証法としてしか捉えることが出来ない。したがって、一定の歴史的条件を考慮に入れれば、主観的弁証法は客観的弁証法そのものであるとも言うことが出来るだろう。

唯物論弁証法の諸法則

1.質と量の相互転化
唯物論弁証法の第一の段階では、量的変化が質的変化をもたらし、質的変化は量的変化を促進する。

質とは、事物の様態を規定すること、すなわち定義である。したがって、質とは「有る」であり、かつ「有る」に繋がる述語一般である。すなわち、質とは、「どのよう+である」かということなのだ。この質によって事物は他の事物と区別される。したがって、質が変化すれば、その質を有する事物(=主語)もまた変化する。このように、質とは事物の限界・有限性を示すと共に変化をも示す。質は事物を定義することによって、その肯定的な性質を示すと同時に、事物の否定的な側面(=可変性)をも示しているのだ。

事物は自身が有する質によって他の事物に変化する。つまり、量とは「どれだけであるか」という意味である。また、第一に量とは大きさである。ゆえに、増大・減少という変化、すなわち質を行う。つまり量は質の一種なのだ。この量は数字によって表現することが出来る。量は質の一種であるが故に変化するものである。ただし、それは連続性においてのみ変化するものだる。このことは、連続的な変化よって捉えられる質と、非連続的によって捉えられる変化とは対照的であり、これが量の特徴となるものである。

質においては偶然的・無連関な変化が起きるのみであったが、それに対して量においては必然的・連関的変化が起きる。この意味で、事物についての規定性としては、量は質よりも客観的なものである。したがって、量は質の一種ではあるが、同時に質の否定である。つまり、量とは質における偶然的な限界を取り払い、また偶然的に変化するものを恒常化する。それゆえ、量よって初めて単なる質において多様に区別されていた諸事物に共通性が現れるのである。量の変化におけるある一定の時点において質の変化が起こるということは、一面から見ると質の変化は偶然的・飛躍的に行われるように見える。けれども、実際はは量の変化という連続的・必然的な変化がその背後において起こっているのである。

このように、量の変化と質の変化は、相互に連関し、また結合している。このように、量と質が結びついたものを一体として捉えたとき、それは「度量」と呼ばれる。事物が変化するのは、事物がある特定の質を有するゆえである。つまり、ある質が他の質に変化するのは、ある質がそれ特有の質だからである。したがって、事物が質を有するということは、同時にその事物が変化するものであるということを意味するのである。ある質における量の増大・減少が進行し、その量的変化の進行がある点に達すると、その質が突然他の質へと転化する。要するに、ある質が他の質に転化するのは、ある質内における量の変化が原因なのである。この現象は「量的変化が質的変化をもたらす」と呼ばれる。

さらに、他の質が新しく発生することによって、そこにおいてもまた新しく量的変化が始まる。これは、それ以前の質内におこった量的変化とは異なる様相を呈している。要するに、質が新しく変化したことが原因となって、異なる様相の量的変化が促進されるのである。これの現象は「質的変化が量的変化をもたらす」と呼ばれる。

2.対立した事物の相互関係
自然においては、互いに対立・闘争しつつも互いに影響・依存し合い立場が可換的であるという諸傾向・諸法則が存在する。

質と量の相互転化においてある事物の他の事物への変化は、質と量の問題に単純化されていた。しかし、この変化という現象を本質的に分析すると、それは矛盾を要因としていることが分かる。矛盾とは、ある主語(=事物)に対して、ある述語とその述語の否定とが同時に繋辞されることである。要するに、事物は矛盾を自身の内部に含むゆえに他の事物に変化するのである。

ところが、あの事物が変化しつつある過程においては、一方の側面と他方の側面とにそれぞれ反対の性質の諸要素があって、その相反する双方の要素が、相互に闘争・相互に影響している。そして、これらの相反する諸要素が一つの全体を成しているのである。

3.否定の否定
事物の発展は、最初の状態が否定され他の状態に変わると共に、その状態がさらに否定されて、以前の状態に帰還するように見える。事物の変化はこれまで述べてきたような、低い段階から高い段階への発展である、そのとき、ある事物からその反対のものへ転化し、さらにそれらの二つの事物の性質を合一させながら、見かけは最初の地点へと戻ってきたような形になるが、実際には事物はより高い段階へと登り、発展を遂げているのである。

Ⅺ.史的唯物論

物質重視の思想
唯物論とは、自然に対する特定の哲学的・認識論的・形而上学的な見解である。この理論は、世界が神の被造物であるとか、精神的なものが根源的であるなどと主張する観念論や唯心論などの見解に対して、 あらゆるものの根底には物質的なものがあると考え、精神的なものはその現象ないしは仮象であると主張する。要するに、物質的なものの根源性を主張する思想である。

科学の起源
これはすべての科学に共通かつ根本的な態度である。というのは、ここでは対象が対象の内にあるものによって説明され、対象が人為的に作られた要因によって説明されることなく、したがって科学の進路を妨げる要因は理論構成に無いからである。そして、この唯物論的哲学が科学の起源なのである。

マルクスは、資本主義体制から生産手段を社会全体で共有する共産主義体制に移行しなければならないことを正当化するために唯物史観史的唯物論)と呼ばれるものを提唱した。

唯物史観
唯物史観とは、古来からの唯物論的態度を、社会の諸現象の成立・連関・発展に対する見方にまで推し進めものである。つまり、唯物史観の根本的な見方は、人間社会にも自然と同様に客観的な法則が存在していて、ゆえに社会史を自然史として見るということであ。つまり、自然史の発展の延長線上に人間の社会を見るというものである。これは、生産力と生産関係の矛盾が社会発展の原動力であるとする考え方が前提となっている。しかし、そのためには自然を弁証法的・発展的に捉えることが必要である。それゆえ、弁証法唯物論が確立されてはじめて、唯物史観も可能になったのである。

唯物史観の定式
唯物史観を定式化はマルクスの著書『経済学批判』の序言においてなされた。少々長いがすべて引用させてもらう。その内容は以下の通りである。

人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。
社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。
このような諸変革を考察するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とを常に区別しなければならない。ある個人を判断するのに、かれが自分自身をどう考えているのかということにはたよれないのと同様、このような変革の時期を、その時代の意識から判断することはできないのであって、むしろ、この意識を、物質的生活の諸矛盾、社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならないのである。
一つの社会構成は、すべての生産諸力がその中ではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる問題だけである、というのは、もしさらに、くわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するものだ、ということがつねにわかるであろうから。
大ざっぱにいって経済的社会構成が進歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア生活様式をあげることができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形態の最後のものである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対関係の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。だからこの社会構成をもって、人間社会の前史はおわりをつげるのである。
                        ――マルクス『経済学批判』

 

 

類的存在
人間とは、集団的・群居的な生活を営む動物である。したがって、人間は本質的には相互の生産共同体において結びついた他の人間と共に共同生活を営む「類的存在」である。この人間が労働をするようになると、共同体は社会に変容する。したがって、社会とは道具を仲介として結ばれる人間関係のことである。それゆえ、人間は孤立して労働をするのではない。他の人間と関りを持ち、社会的関係の中で労働するのである。要するに、人間の労働は常に社会的労働なのでである。

労働
マルクスは人間の本質を労働の中に見た。すなわち、人間が他の動物と区別されるのは人間が労働をするからなのである。マルクスによれば、労働とは道具を用いて生産することである。したがって、真の労働は道具の製造と共に始まるのである。また、労働は人間が自分の欲求や能力を実現・発展させる活動でもある。それゆえ、労働はただ単に生活の手段を得て生命を維持していくだけの活動ではない。人間はそれを通して自分の様々な可能性を実現していく、そしてそこに喜びや生きがいを感じることが必要なのである。

労働の仕方の変化は人間の在り方を変える。労働の仕方の変化の根源は常に道具の変化である。そして、この道具の変化は人間同士の繋がりの様式、すなわち社会の在り方を変える。ただし、このときには人間が道具を用いてその労働力を発現することが必要不可欠である。そのようにして初めてある事物が道具に変化することが出来るのである。

ところが、労働とは本質的には何ものかを生産をする活動である。それゆえ、道具において発現される労働力とは生産力をさすのである。マルクスは人間社会の根源には常に生産力があると考え、その生産力を変化させることによって社会もまた変化させることができると考えたのである。

生産
人間は労働における道具を媒体として社会を形成している。すなわち、社会を構成する人間は生産活動において結ばれるのである。この形態は生産関係と呼ばれる。この生産関係は、道具の発達によって変化する点では労働組織を意味する。しかし、生産関係は道具を所有しているか否かによって決定される。その意味では、生産関係と所有関係とは同義である。

社会を動かすのは人間の生産活動であり、生産活動は生産力と生産関係によって説明される。生産力とは、機械などの生産手段を用いて生産物(財やサービスなど)を生みだす力のことである。資本主義社会においては、生産手段は基本的に労働者の所有物ではない。この生産手段を所有する者は資本家と呼ばれる。このとき、労働者と資本家の間に発生する関係が生産関係なのである。また、資本主義社会以外においては、共同狩猟と食料の採集、封建領主と農奴の関係などが挙げられる。このような生産力と生産関係の総体は、生産様式と呼ばれる。マルクスは歴史的な生産様式として、アジア的、古代的、封建的、近代資本主義的な生産様式などを挙げている。生産様式以外の文化や制度などは社会形態と呼ばれる。この両者を歴史的発展に沿って考察すると、「社会形態は、生産様式によって規定されてきた」と言える。

生産様式は、「効率化」「生産効率の増大」の法則に従って進化する。生産様式の効率化は生産関係の改善によって達成される。現時点における生産関係は労働者と資本家の関係、すなわち人と人との関係であるが、それは効率的な生産を実現するための関係にはなっていない。それゆえ、それはさらに進化していくのである。この進化を誘導するのは、思想ではなくあくまで「生産」である。

前述したように、我々の社会を支えているのは生産と生産力である。これを分析すると、さらに労働と労働手段に分かれる。したがって、生産手段があってもそこに労働が存在しなければ、生産は成立しないのである。この生産力と生産関係との関係、あるいは人間が結んでいるいろいろの仕方の生産関係はまとめて社会の土台と呼ばれる。この土台の特徴は人間の営みがたいてい物質的な生産に関わっているというところである。ここに物質的とは、労働において人間が物質を生産するということだけでなく、生産の仕方、生産過程そのものが道具を利用するということである。

国家と階級
生産関係が所有関係を意味するならば、所有権を維持するための法律が要請される。法律は物質的な生産過程を離れた社会全体の意志に関わる問題である。したがって、所有権を維持するためには、社会全体による所有権の承認と、所有権を犯す者を処罰する法律が要請される。そのためには、社会には特別な組織が要請された。それが国家という所有権の為の権力機構である。

上述したように国家の第一の目的は私有財産の擁護であった。また、社会は生産を基礎としている。このとき、所有関係において人間は道具(=生産手段)の所有者と非所有者とに分かれる。彼らはそれぞれ生産に対して違った役割を果たす。この所有者と非所有者によって区別された人間の集団を階級というのである。

上述したように、階級という人間集団は生産を基礎としている。そして、所有者の階級が非所有者の階級に対抗して自分達の私有財産を守るために国家というものは作られたのである。したがって、国家とはつまり外見では社会全体の意志の表現という形を取っているが、実質的には他の階級に対する階級的支配の道具なのである。そして、被支配階級(=非所有の階級)も様々な手段を用いて、特に政党を設立することによって支配階級(=所有者の階級)との階級闘争を行うのである。

上部構造と下部構造
マルクスは社会・政治・経済を分析し、そこに二つの構造を見出した。それは、「上部構造」と「下部構造」である。

生産手段に所有に関して結ばれる階級的な諸関係は、生産様式については社会の「下部構造」と呼ばれる。それに対して、社会形態については「上部構造」と呼ばれる。この上部構造の上で人間の精神的な活動が営まれ、法律や政治制度、思想、宗教、芸術などが形成される。

下部構造によって上部構造(文化などの社会の諸相)は規定される。つまり、下部構造によって法や制度や文化などが影響を受け、また変様していくのである。ここで重要なのは、生産(=労働と生産手段の関係)や、生産関係(=労働者と資本家の関係)を変容させることによって、上部構造が変容するということである。つまり、物質的・経済的な生産活動が精神的な営みを規定しているのである。マルクスは下部構造の段階的な変化に応じて上部構造が変化すると説明する。したがって、ここでは上部構造の特徴もまた段階的に変化する。しかし、上部構造の変化は土台に反作用するという仕方でも行われるのである。これが「上部構造の能動性」と呼ばれるものである。

したがって、上部構造は能動性に限っては独自の発展法則を有しているが、重要な特徴においては、下部構造の変化に対応している。このように、上部構造が下部構造の変化に対応して自らも変化する。しかし、生産関係の形態がもはや生産力の発展を助けず、その足かせとなるとき、上部構造の全構造を変革する時が来る。ここにおいて、権力たる国家の性格やその権力を握る階級は変容する。こうした上部構造の全体的な変化は革命と呼ばれる。

人間社会の歴史
マルクスは社会の土台から上部構造まで統一的に把握する点でまず歴史主義的である。また、人間が動物の時代から今日まで発達してきた経路を明確にする。歴史的時代は下部構造、特に生産手段の所有様式に特徴づけられる。

1.原始共産制
私有制が普及する以前の人類の社会体制であり、共産制の1形態である。すべての人間が産出者であり、産出物は共同体内の共有のものである。ここでの産出物は即座に消費されるゆえに、余剰は産出されない。また、私有財産も国家もほとんど存在しなかったと考えられる。要するに、土地も道具も生産者達の共有であって、すべての人間が経済的に平等であり、また階級も無い社会制度である。

2.奴隷制
人格を認められず、所有の対象として隷属し、どのような生産手段をも所有せず、使役するために売買されている生産者、すなわち奴隷階級(=非所有者)と、その奴隷を使役することによって労働から解放され、自立と自由を享受する自由民(=所有者)の階級とが存在する社会制度である。

3.封建制
古代ギリシア古代ローマ社会に典型的な古代の奴隷制が生産力の進歩によって覆された結果、領主(=所有者)が農奴(=非所有者)を支配するようになった社会制度である。ここにおいて、農奴(=非所有者)は一部の農具を所有するだけで、土地は所有していない。

4.資本制
労働力は商品化され,剰余労働を剰余価値とすることによって資本の自己増殖を目指し,資本蓄積を目指すという社会制度である。生産手段を有する資本家階級による私的所有と利益追求のための市場競争を基本とし、彼らによって商業や産業が制御されている。その一方で、生産する労働者階級は労働力だけを所有し、生産手段は所有しない。

5.社会主義
労働者が公的権力を掌握することによって、資本家が私有する社会的生産手段を公有ならびに国有の財産に転化する。これにより、労働者は生産手段を資本としてのこれまでの性質から解放する。この時点からは、計画的な生産が可能になる。また、同時に無階級へ向かう社会制度である。

社会革命
社会は次のように変化する。すなわち、まず下部構造において、生産力に見合った生産関係が形成される。生産力は絶えず発展していくが、生産関係の側はそれに同調しない。むしろ、支配階級が現状を維持しようとするので、固定した形態が維持される。つまり、生産関係は生産力を発展させるためのものではなく、その妨げとなるのである。そのため、生産力と生産関係の間には矛盾が生じる。このような状態になると、やがて古い生産関係は壊され、発展した生産力に見合った新しい生産関係が作られる。下部構造の変動によって、巨大な上部構造の全体が徐々に、あるいは急速に覆るのである。これが社会革命である。

社会革命はこれまで生産手段を所有し、社会を中心的に動かしてきた支配的階級が、発展した生産力を担う新たな階級にとって代わられることでもある。その意味で「歴史は常に階級闘争の歴史であった」とマルクスは『共産党宣言』で述べている。それは、近代資本主義社会においては資本家階級と労働者階級という敵対する二大階級の間で行われると考えられたのである。

共産主義
階級のない完全に自由で平等な社会の実現には、労働者階級が資本家階級との階級闘争に勝利することが必要である。この勝利によってまず社会主義が実現される。ここでは労働者階級が政治的支配権を有し、生産手段は国家に集中される。そして、過渡的な段階の社会主義は個々人が全面的に発展し生産力が成長した後に、より高い段階である共産主義に移行する。そこでは、一人ひとりの自由が同時にすべての人の自由であるような共同生産性社会が実現され、「各人がその能力に応じてはたらき、その必要に応じて受け取る」ことが出来るようになるのである。