麦酒の略収 

長年の不平等に対する世界中の人々の反感、彼らの胸の鼓動や新しい生活の形を考え、試みることに共感すること、それが革命的論文がなすべき重要な義務である。革命を成功させるのは希望であり、絶望ではない。     
                ーピョートル・クロポトキン『ある革命家の思い出』

 

人は皆、<労働>をやめるべきである。
<労働>こそが、この世のほとんど全ての不幸の源泉である。
この世の悪と呼べるものはほとんど全てが<労働>、あるいは<労働>を前提として作られた世界に住むことから発生するのだ。
苦しみを終わらせたければ、我々は<労働>をやめなければならない。
                       ーボブ・ブラック 『労働廃絶論』

無政府主義とは、個人の自由と社会の平等を最大化を目的とする思想である。

Ⅰ.万人の富裕

1.今日における我々は実に富んでいる。それにも関わらず、なぜここまで貧困者が多いのか?なぜ多くの人々はブラック企業での労働を強いられているのか?今まで人類が積み上げてきたすべての技術・知恵があるにも関わらず、その上数時間の労働で万人の安楽を請け負うに十分な生産機関があるにも関わらず、なぜ高額の賃金を得るサラリーマンでさえも安心ができないのか?それは、生産に必要なあれこれ、すなわち土地、学識、鉱山、道路、機械、食物、住居、教育、学識の殆どが少数者に独占されているからである。

2.理学と工学、理論と応用、発見と発明、頭脳と身体―これらはすべて協働に働くものである。いずれの発見も、いずれの進歩も、いずれの財富も、みんな過去から現在にかけての心身による勤労の成果である。その成果は一人の天才が成し得たものももちろんある。しかし、そこに至るまでの過程では、名もなき職人が代々を重ねて発見した一部分の改良があり、名もなき幾千もの発明家の小さな発見があり、名もなき労働者がそれらを運用することでその有用性を実証したことがあってのものである。したがって、多くの人類の財産の極小の一片ですら、少数の者が占有すべきものではない。

3.独占は人類社会全体に蔓延している。しかし、上に述べた理由から独占は不正であり、万物は万人のものであることは明白である。万人がそれを必要とする以上は、万人がその生産に関わっている以上は、万物は万人の為にあるのである。たとえ一台の機械であっても独占を許していい道理はない。したがって、「この機械は私のものだ。もしこれを使いたいならば、これで作ったものを一定数私に収めなさい。」などという権利は誰にもない。これは横暴である。繰り返し宣言しよう、万物は万人の為にある。すべての人間が正当な労働をしたならば、彼らは正当な分配を得る権利を有している。その分配は、彼らの生活の安楽を保証する物でなければならない。「労働の権利」なるものはもはや不要である。これは、賃金奴隷として搾取される権利を意味するに過ぎない。むしろ、宣言されるべきは「安楽の権利」すなわち、この世のすべての人類の安楽を保証することである。

4.万人の富裕は夢ではない。それは必ずや実現できることである。たしかに、福岡県北九州市門司区で2006年4月から5月にかけて二ヶ月間で3名の餓死が起きた。そして、コロナ禍の影響で学校給食がないために一日一食の生活を強いられている子供達がいる。しかし、その一方でコンビニやスーパー、飲食店などでは大量の食料品が廃棄され、また価格の減少を抑える為の生産の制限や、大量の農作物の廃棄などが為されている。つまり、飢餓の問題は食料の分配の問題なのである。

5.万人の富裕を実現するためには、莫大なる資本―都市、家屋、牧場、耕地、工場、道路、教育を私有財産として認めるわけにはいかない。所有者に独占させておいてはならない。我々の祖先が辛苦の末に獲得し、建築し、工夫し、獲得した莫大な財産は共有のものとならなければならない。人間の利害を協働にして、そこには万人の最大利益が生じなければならない。それゆえ、「収用」というものがなければならない。

6.収容ということ、すなわち人間の安楽に必要な一切の事物をもって共産制に移行すること、それは歴史が21世紀の人類の眼前に提供する問題である。しかし、これを立法によって解決することは不可能である。現在の政府でも、あるいは通常の政治改革から生じるいかなることでも、解決をなしえないことは自明である。それゆえ、我々に必要なのは社会的革命である。

7.従来では、革命のドラマチックな方面ばかりが強調され、その実際的方面はほとんど省られることが無かった。最初の間の闘争や戦闘はすぐに終わりを告げる。したがって、旧組織の転覆されられた後のもろもろの活動の開始が革命の真の出立点である。

8.革命が行われている間にも人々は苦しんでいる。製造所は休止し、工場は閉鎖し、産業は停止する。労働者はそれまでの賃金の最低額すら受け取ることができなくなる。食料の価格は益々高騰する。この間、人々は忍耐することを強いられる。したがって、いかにしてこの困難から抜け出すかということが一番の問題になる。そして、この問題に対する解決法はただ一つ、すなわち衣食住を万人に漏れなく分配することである。我々はこれを宣言し、それを実現するために働かなくてはならない。これは、万人の安楽に必要な一切のものー食料、衣服、住宅ーを直接かつ迅速に占有して初めて実現されることである。

Ⅱ.無政府共産制

1.私有財産を禁じた以上は共産的無政府の方針によってすべての社会を組織しなければならない。無政府は共産制を生じ、共産制は無政府に至る。両者は平等の追求にとっての両輪である。我々の共産主義旧ソ連などにおける共産主義でもなければ、かつてのドイツの国家社会主義でもない。我々の共産主義は「無政府共産主義」である。政府を持たない共産制―自由の共産制である。これは、自由における2つの理想の総合である。すなわち、経済からの自由及び、政府からの自由である。

2.今日では、あらゆるものは相互に依存した関係によって成立している。生産の各部門が互いに他の一切と組み合わさる現在の工業において、工業製品を独立した個人によるものであると見做すことは誤りである。それゆえ、この万人の貢献によって成り立っている製品から、各個人の配当額の差を計算することなど不可能である。したがって、賃金制度も放棄しなければならない。財産の新形式は、同時に報酬の新形式も要請するのである。

3.国家なき社会という思想に多くの反対が寄せられることに疑いの余地はない。というのも、我々のほとんどは幼少の時から国家を必要不可欠なものとして教育されてきたからである。しかし、実際の社会を見れば政府にできることがいかに微々たるものであるかを実感できるだろう。日常における多くの物事は政府の干渉を必要としない。その中でも重要な役割を果たす企業間の取引でもほとんどの場合政府による介入は無い。企業間の取引は相互の信用を基礎とするものである。契約を遵守することの習慣や信用を傷つけないよう努めることは、十分にその関係を維持せしめるのである。

Ⅲ.収用

1.収用とは、何人たりともいかなる欠乏をも感じることなく、その生活を送ることができるようにするための手段である。その社会においては、僅か3~4時間の労働の後には、文明がもたらした一切を享受する権利を有し、ある人は芸術において自らの感性を発揮し、ある人は科学において自らの知性を振るい、ある人は宗教において自らの信仰を深めることになるだろう。

2.文明社会においては、全ての事物が互いに関係しあっている。したがって、全体を変革せずにその部分を改良することは不可能である。それゆえ、我々は全ての私有財産を攻撃せねばならない。このために、食料、衣服、家屋もこの例外とならず、公共のものとして収用されることとなる。

Ⅳ.食料

1.「食料よ!革命が必要とするのは実に食料である。」将来の革命が社会的革命であるならば、その目的のみならず方法においても、従来の反乱とは異なるものでなければならない。新たな目的を達成するには新たな手段を必要とするのである。その手段とは、革命の第一日から最後の時まで自由のために戦うすべての地において、何人たりとも飯にありつけないなどという事態に至らないよう努めるというものである。なぜなら、万人は飯に対する権利を持っているからである。そして、現在の食料は万人に供給するには十分な量がある。したがって、万人の為の飯を最重要課題として定めて初めて革命は現実のものとなるのである。

2.では、実際にはどうすればよいのか、それはまず反乱地方の倉庫や家畜市場、スーパーなどで一切の食料を占領する。次に有志の者を募らせて各店舗や倉庫において大体の物品目録を作成させる。2日間ほどすれば、有用の食料、その貯蔵の場所、その分配方法において十分精密な計算表が出来上がるだろう。そして、その間も万人に必要な食料は供給しなければならない。特に栄養価の高いものは病人や子供などの弱者のために用意しなければならない。もし、なんらかの消費品が不足したならば、最も急を要する物に与えなければならない。

3.百軒の家に別々にコンロを使うよりも、一ヵ所で百世帯分の調理をするほうが遥かに経済的である。(経済性以外の利点もあるがそれは後の章で論じるつもりである。)とはいっても、料理の好みは一人一人異なっている。したがって、好まざる食事の強制が懸念されるかもしれない。けれども、基本的な調理だけを一ヵ所で行い、後に個人が好きなように味付けをすれば、この問題は解消される。また、アレルギーや体質などの事情から摂取できないものがある場合は、それに合わせて別の料理を用意したとしてもこの経済性に大きな影響が出ることは無い。また、自分で料理をしたいという者がいるのであれば、それはその者の自由である。食事は家族と団欒で食べることも、孤独のグルメを楽しむことも、仲の良い友人と共に食べるのも個人の自由である。

4.しかし、一か月もすれば食料は底を尽きてしまうだろう。したがって、如何にして新たな食物の共有を為すべきかを講じなければならない。この問題を解決するには当然のことながら、農業生産者及び畜産物生産者の協力を必要とする。彼らに生活に必要な物品―食物、衣服、住居などのみならず、嗜好品―酒、タバコ、菓子なども渡す必要があるだろう。そして、彼らが農作に必要な道具をもっていなかったならばそれらも供給する必要がある。また、人手が不足している場合には、有志の者を募らせて農業・畜産の知識と経験を持つものに教えを乞い、協力しなければならないだろう。工業製品も農業・畜産の場合と同様にするべきである。手段はこれだけではない。食料がまだ余っている地方に赴き、支援を要請するのも手の一つである。

5.革命の際には、できる限り諸外国に依頼しないようにしなければならない。というのも、諸外国から食料品が輸出されているにしても、それはその国にそれらの品が有り余っているという訳ではない場合が多いからである。それは、農業者が過酷な労働の末に生産されたものである可能性が高い。工業製品もこれと同様である。

Ⅴ.住居

1.革命時でも平時でも、労働者はどこかに住まなければならない。我々にはその頭上に屋根がなくてはならない。それがすべての人に行き渡る為には住居の収用ということが必要になってくる。収容に着手されるや否や有志者の団体が現れ、マンションやアパート、一軒家などが調べられる。その調査において、空き家や人数に比べて広すぎる家や逆に狭すぎる家が判明するだろう。2日もすれば上記よりも細かい情報が集められ、その全部の目録や統計が作成されるだろう。そして、人数に比して狭すぎる家に住む人々はより広い家へ、住居を持たない者は空き家へ、広すぎる家に住むものは適切な広さの家に住むことになる。

2.しかし、このような処置をしたところでやはり他性の不平等・不公平は発生することになるだろう。しかし、問題は不公平をいかに小さくするかというところにあるのである。それだけでなく、一切の住居の割当ですぐに絶対の平等を確立しなければならないわけではない。もちろん、最初の内は多少の不均衡は有るだろう。しかし、とび職も大工も生活の保障を得られると分かれば、彼らがもつ技術を以て1日2~3時間の勤労をするくらい厭わないだろう。そうなれば、一定の期間を経た後に現在立っているものよりもずっと便利かつ立派な住居が地面から屹立することになるだろう。

3.革命において我々は、すべての人々に住居を収容して無料、すなわち家屋の共有と各世帯が相応の住居を得る権利を宣言しなければならない。これによって私有財産に対し致命的な打撃を与えることが可能になるのである。

4.しかし、我々はどのような革命であっても多少の日常の攪乱が発生することを忘れてはいけない。この旧制度・旧社会からの大いなる跳躍が何の物音もたてずに静かに実行できると考えていることは、大きな誤りである。混乱は必ず発生するだろう。しかし、それが全くの破壊になってはならないことは言うまでもないだろう。我々は革命に付随する弊害を最小のものとしなければならないのである。

Ⅵ.衣服

1.人間が人間たる生活を送るために必須となる要素である食料、住居をこれまで論じてきた。したがって、残るは衣服の問題が残ることになる。この問題でも食料で講じた手段と同じである。すなわち、衣服を売買・貯蔵している一切の店舗・倉庫を占領するのだ。そして、その戸口を万人に開放し、誰でも必要なものを取ってよいことにすべきである。私有制はもはや撤廃されたのだ。

Ⅶ.財源

1.社会がその市民に生活の必要品(当然、ここには嗜好品や娯楽品なども含まれる。)を保証すると言う以上は、生産の為の土地、資本、工場、輸送等を占有・収用され、社会に還元される。そして、生産の財源といかなる生産物が万人の安楽を増進するかを研究しなければならない。

2.労働者は剰余価値を少数者に搾取される。ここにある真の弊害は、剰余価値が労働者の手に渡らないことではない。むしろ、剰余価値が存立することそれ自体である。そこにおいて、労働者は生産の内の僅かな一部分を得るために彼らの労働力を売るということが起こっているのだ。

3.我々は、最小限の労働力で最大限の生産を目標としなければならない。労働者が生産機関を使用するのに、その所有者に使用料を払わなければならない場合は、あるいは所有者が社会の必要よりも自己の利益の最大化を図る限りは安楽は極めて少数者だけが享受できるものとなってしまうだろう。

4.人は衣食住を生産するためには一日4~5時間、週5日間ほどで十分である。そのためには効率を最大化する必要がある。機械は積極的に用いなければならない。また、今日ではAIが著しい発展を遂げ、これも積極的に活用せねばならない。これらの発展いかんによっては、上記の労働時間はより短くなるかもしれないのである。残りの時間は各々の欲求を満足させるために使うことができるのである。

Ⅷ.贅沢の欲求

1.しかし、人間は食う、住むなどのことばかりを生きる目的としているわけではない。食欲や住むべき場所の安定が満たされたならば、直ちに他の芸術や学術への欲求が突出来るのである。人生の目的は各個人によって異なっている。社会が無政府共産制に移行すれば各人の個性は益々発達する。したがって、その欲求も様々なものになるだろう。

2.もし、人のその日々の労働のほかに、各自の嗜好にあった一個の快楽も得ることができなければ、あらゆる悲嘆の避けがたき人生は、果たして生きる価値のあるものなのだろうか。すべての人は芸術的及び学術的な欲求を有する。しかも、無政府共産制の強みは人類のゆうするすべての知性と感情を理解し、いかなるものにも序列をつけない点にあるのである。

3.無政府共産制の社会においては今まで思想に触れてこなかった者が思想や詩歌に触れる機会を得ることになるだろう。したがって、自らの思想を世に広めたいと希望し、それを実行する者は多くなるだろう。それゆえ、出版される書籍は今までよりもいっそう多くなるだろう。このような社会では少しはつまらないものが出版されることも多くなるだろう。しかし、同時に印刷物は多くの肥えた目によっていっそう精読されることになる。書籍が訴える読者の範囲は一層広くなり、皆良好な教育を受けて、一層判断力に富んでいるだろう。

4.無政府共産制の社会では、皆が良好な科学教育を受けることができる。そしてその興味に応じて諸分野の協会に属することになる。今日では百人くらいで研究・調査をしているところに、我々の目指す社会では、一万人もの人々が参加することになるだろう。それゆえ、今日では二十年ばかりかかる研究がわずか一年で成し遂げられるであろう。

5.無政府共産制の社会では、必要品の生産に数時間をささげた後で、一日5~7時間の自己の自由にできる時間で、各人の嗜好に応じて贅沢の欲求を満たすのである。無数の組合は、それらを供給することに着手する。今日極めて少数の特権階級のものとなっているものでも、万人が得られるようになる。各人はこれによってよりいっそう幸福となる。人々は書籍でも、美術品でも、他のものでも、自分の望みの物を得るために、単調に思える仕事も鼓舞され、一種の気晴らしになるのである。かくして、主人と奴隷の差別は撤廃され、人類の幸福のために皆が働くようになるのである。

6.そして、忘れてはならない重要なことは上記のような「高尚」なもの以外の贅沢、すなわち酒、タバコ、セックス、ドラッグ等のものである。無政府共産主義社会ではこれらはすべて個人の自由として認められる。むろん、不倫も乱交も自由である。

Ⅸ.労働

1.万人が資本から解放された社会では、労働は愉快なものになるだろう。今日では、多くの問題があるために、上記のような主張は空想的に思われるかもしれない。しかし、無政府共産制の社会はそのようなことがかえって生産の不利益になることが分かっているので、そのような問題を一掃する。

2.サービス残業長時間労働、休日出勤による弊害は黒田祥子氏が2017年に発表した論文『長時間労働と健康,労働生産性との関係』で詳しく論じられている。その一部を参照すると、「次に、労働時間と生産性との関係についてみていく。(中略)しかし、最近では長時間労働疲労等を増すことを通じて、限界生産性を低下させることを示す定量研究も報告されるようになってきた。(22f.)」との記述がありまた、「睡眠時間の低下が生産性を顕著に低下させることは多くの文献が示してきており(中略)、過重労働は睡眠時間の減少につながる結果、仕事中のミスが増え,ぼんやりが増えることにもつながる(23f.)」との記述もある。

3.無政府共産制の社会においては上記のような実証的データに基づいて、労働環境を整備する。したがって、この社会においては労働は一種の快楽になり、安楽なるものとなることに疑いの余地はない。不衛生な状態は社会全体にとって不利益なので、忌避されるような仕事は一掃されるだろう。自由人たる我々は、そのような環境を創出しなければならない。それゆえ、仕事は愉快なものとなり、生産力は大幅に拡大するだろう。今日においては、それが例外であっても我々の目指す社会ではごく当たり前のこととなるだろう。

4.無政府共産制の社会においては、医者とライン工の間に差別は認められない。これは、マルクスらが立てた複雑労働と単純労働の区別であるが、これはすなわち、医師の一時間の仕事はライン工の7時間分の仕事に匹敵するという主張である。我々の目指す社会においてはこのような差別をしないどころか、人の集まらない仕事にはそうでない仕事よりも高い給与が支払われるのである。なぜなら、今日の科学者や医師がライン工の等の労働者よりも何倍も多く儲けているとしても、それは彼らの「努力」の賜物ではなく、教育・養成の独占によるものであるからである。また、無政府共産主義の社会では本人の意志によりのであれば売春は自由である。

Ⅹ.生産と消費

1.社会を論じるに当たっては、国家(=全体)を本にしてその枝葉として個人を考えるのではなく、まず個人を起点として自由な社会に至るという方法が採用されなければならない。また、生産、交換、税金、政府などを論じる前にまず個人の欲求とそれをいかに満足させるべきかを論じなければならない。生産の手段は欲求の次に来なければならないのである。また、欲求の満足は人間の精力の最小の消耗によって為すための方法も研究する必要がある。かくして、社会科学たる経済学は厳密な自然科学となるのである。

Ⅺ.分業

1.生産の分業が社会にとって有用であるとの主張は誤謬である。というのも、ある労働者は、同じライン作業を何時間も何年も続けていくうちに、その知性や感性をすり減らしてしまうからである。また、ある労働者は体力仕事ばかりをして思考を働かせることから除外されている。その一方で、生産にほとんど関わらずに思考を独占している者もいるのである。

Ⅻ.反論

1.まず、第一に「もし万人の生存が保証され、人が労働によって賃金を得る必要が無くなったなら誰も働かなくなるだろう。」という反論が予想される。しかし、労働の形態が賃金制であってもそれに見合った給与が得られることはほとんどない。というのも、剰余価値が必ず資本家に搾取されているからである。賃金労働は奴隷の労働である。それに加えて、既に2,3の資本主義的経済学者でも人が生産的労働をする動機は貧困への恐れからではないことを主張している。

2.第二に、「万人が自分が働かなくてもよいというのであれば、皆が労働の負担を他人に押し付けるであろう。」という反論も予想される。しかし、これは今日の労働形態の劣悪さに起因する特殊なものである。これが、もし衛生的な環境で、かつ一日僅か4~5時間であれば状況は異なってくるだろう。

3.また、第三に「如何に労働を楽しくするような環境が整備されたとしても、労働を拒否する者は現れる可能性がある。」という反論が出るだろう。しかし、もしそのような者がいたとしてもそれはごく一部であろう。ある企業が一人の労働者の欠勤の為に倒産することなどはほとんどあり得ない。もしも、ある労働者が粗雑な仕事をしたり、同僚の妨害をしたりするのであれば、その労働者はその労働環境から追放すればよいのである。あるいは、その労働者は怠惰なのではなく単にその仕事が性に合わないという可能性も考えられる。千人の人間がいれば千の個性があるのである。社会に合わない何者かがいる場合多くの人はその原因を究明しようとせずに、怠惰であるだとか、罪悪であるなどどいう風に決めつけてしまうのである。

ⅩⅢ.教育

1.学校で怠惰な者と思われている子供は、その教え方が悪かったということに起因することが少なくない。また、貧困から良質な食事をとることが出来ず、それが脳に影響していることもある。語学が苦手な生徒でも数学はできるというのは珍しいことではない。

2.無政府共産主義の社会の教育では、子供の脳に知識を詰め込むようなことはしない。親の重圧によって勉強が苦痛なものとなることは認められない。そして、書物ではなく自然によって教えることもより多くなるだろう。木の高さを測らせて幾何学を教え、花を摘んだり、海で魚を取ることによって自然科学を教え、魚を取りに行くための船の作成で理科を教えるのである。このようにして、知は快楽に強く結びついていることを教えるのである。これは、教育の最初に教えなければならない重要な事である。

3.生徒が100人いるならば100通りの異なる教授法が必要である。一人の大臣が制定する教育方針は子供を鋳型に入れて、国家の都合のいい人間を作成するためのものである。学校を監獄にしてはならない。学校は自由でなければならない。無駄な校則は全ては廃されなければならない。男女で頭髪の長さを規定するなどもっての外である。生徒の自主性を最大限に尊重せよ。部活動の強制は自由への反故である。彼らが望むならばその望むことを指せればよいのである。決して強制してはならない。教師は最低限の教師でなければならない。教師は支配者となり権力を行使してはならない。

4.すべての教育は万人に開かれたものでなければならない。もし学問を望む者がいれば教育機関はそれを拒否してはならない。むろん、教育費はすべて無償である。興味があれば行き、つまらなければそこを自由に去ることが出来る。